「マゼラン世界周航五百年(5)」(2018年11月02日)

テルナーテへ行ってセハウンに会い、スパイスを満載してヨーロッパに戻ろうという計画
はポルトガルで実現不可能だと考えたマゼランは、コロンブスの故事に倣うことにした。

つまりスペイン王に船と乗組員を用意させてスパイスを山分けにしようという方法だ。こ
うしてローマ教皇がスペインに与えた世界の西半分を通ってテルナーテへ向かう世界周航
の計画が煮詰められていったのである。

一説では、ヨーロッパで黄金以上の価値を持つスパイスの産地の支配階級のひとりとなっ
てその地の王と並び立つような地位を獲得したセハウンに倣おうという気持ちが、セハウ
ンの手紙を読んだマゼランの心中に育って行ったのではないかという話だ。もしもマゼラ
ンが香料諸島まで生き延びてそんな方向へ動き出していれば、マゼラン船隊世界周航は起
こらなかったかもしれない。


スペイン王が用意した5隻の船と270人の乗組員は1519年8月10日にセビリアを
出帆してグアダルキビル川河口のサンルカルデバラメダに至り、9月20日にそこから海
洋に乗り出した。それがマゼラン船隊がスペインを後にした日だ。

乗組員の国籍はマゼランが連れて来たポルトガル人のほかにスペイン・イタリア・ドイツ
・ベルギー・ギリシャ・イギリス・フランスなどの混成集団だった。ポルトガル人の数が
目に余ったため、スペインの官憲は一部をスペイン人に交代させている。最終的にポルト
ガル人は40人ほどに納まったようだ。

大西洋で2隻が欠けた船隊は、3隻で太平洋に乗り入れた。1520年11月28日のこ
とだ。北西に針路を採った船隊は1521年2月13日に赤道に達し、3月6日にグアム
島に着いた。

3月16日、船隊はフィリピンのホモンホン島に到着した。150人まで減った乗組員が、
最初にフィリピンの土を踏んだ西洋人となった。ホモンホンの領主はセブ島に一行を案内
し、セブ王は一行を歓迎したため友好関係が築かれた。ところが、かれらはマクタン島の
領主と敵対関係にあり、マゼランは敵を撃滅するよう依頼される。[ 続く ]