「マゼラン世界周航五百年(6)」(2018年11月05日)

1521年4月27日朝、マゼランが小戦隊を率いてマクタン島に上がったところ、現地
領主の軍勢と戦闘になってマゼランはそこで戦死するのである。指揮官と多数の乗組員を
失った船隊は、1隻を焼却して2隻に減らし、西に向けて航海を続けた。パラワン島を経
てブルネイに至り、そしてやっと11月6日に念願の香料諸島に到達する。

スペイン船隊からマゼランがいなくなった今、残った者たちがポルトガルの支配下にある
テルナーテに近付けるわけがない。船隊は11月8日にティドーレ島に上陸して、テルナ
ーテと戦争状態にあるティドーレのスルタンと親交を結び、大量のスパイスを手に入れた。
こうしてポルトガルを後ろ盾にするテルナーテと、スペインのバックアップを得たティド
ーレの対立という形が出来上がって行く。

12月中旬に2隻はティドーレ島を後にしてスペインへの帰国の途に就いた。ところがし
ばらくして、1隻が浸水したのである。無事な船に人間と貨物をすべて移す余地はない。
浸水した1隻は修理せざるを得ないのだ。

無事な1隻はインド洋を渡る単独航海に移った。船長エルカノが指揮するこのビクトリア
号が1522年9月6日にセビリアに帰還した。ほぼ三年間の世界周航だった。

一方浸水したもう一隻は1522年4月6日、ポルトガルの支配海域を避けて東に向かっ
た。しかし不運は続くものだ。航路を見失い、悪天候に見舞われて、船は再びティドーレ
に戻って来た。折しもポルトガル側はスペインのために働くマゼランを逮捕するため、テ
ィドーレに船を送っていた。そしてそこでポルトガル船はスペインの老朽船と瀕死の20
人を発見したのである。すべてはテルナーテに移されたが、船は嵐で粉砕されてしまった。


ともあれ、ティドーレのスルタンと渡りをつけたことから、スペインはマゼランの航路を
たどって何度かティドーレに船を送った。要塞がいくつか建設されて、スペイン人守備隊
が駐屯した。1527年から1534年まで、スペイン人は後続する支援のないまま、テ
ィドーレで踏ん張り続けた。

しかし東からやってくるスペイン船を目の仇にしたポルトガル側はそれを教皇の定めた世
界分割違反としてクレームをつけ、1529年にサラゴサ協定を結んで金で決着させた。
だが、隙あらば力ずくで、という時代の人間が一筋縄で行くわけがなく、ティドーレのス
ペイン要塞は維持され続けたのである。[ 続く ]