「マゼラン世界周航五百年(7)」(2018年11月06日) 最終的にメキシコから遠すぎる要因がスペイン側の足かせとなり、結局1534年にスペ イン人はティドーレから追い払われてしまう。その後1544年にスペイン軍はふたたび ティドーレの要塞にやってきてスペイン国旗を掲げたものの、1545年にまたポルトガ ル人に屈服した。 スペイン人が再び東南アジアに手を伸ばそうとしたとき、まずフィリピンがそのターゲッ トにされた。1565年にセブ島を支配下におさめ、ルソン島に向けて支配を拡大し、1 571年にマニラを手に入れてフィリピン支配の根拠地にした。それ以来、アジアの物産 がマニラを経由してメキシコへ流れるルートが誕生した。スペイン人はメキシコで採れる 銀で貨幣を鋳造し、それで代金を支払ったため、メキシコ銀貨が東南アジア諸港における 基軸通貨のひとつになった。そんなマニラからスペイン船隊が強力な侵略軍を運んで香料 諸島にやってきたこともある。 スペインのポルトガル併合、イギリスとオランダの香料諸島進出といった激動の中で、最 終的にオランダVOCが香料諸島の支配を確立し、スペインはフィリピンの経営、ポルト ガルはティモールの経営に集中することになっていく。 ヨーロッパ人がやってくる以前の地場諸王国間の覇権をめぐる争いから始まって、ヨーロ ッパ人が渡来するようになって以降も地場諸王国の争いと敵対が継続する一方で、ヨーロ ッパ人の間でも支配権をめぐっての争いと敵対が続き、それが地場諸王国間の争いに更に 複雑な要素を付け加えて、折に触れて同盟者と敵対者が入り乱れる戦争がさまざまに起こ った。テルナーテ〜ティドーレ〜ハルマヘラがスパイス貿易のセンターを成していたこと がそのような複雑な歴史をその地方に歩ませた原因であったにちがいない。 その要因こそがマゼランをそこに招き寄せ、歴史の必然がマゼラン船隊の世界周航を実現 させたと言えないだろうか。ティドーレはマゼラン就航5百年記念の世界催事に、「東西 文明の接点」と題したテーマで参加することにしている。西からやってきたポルトガル人 と東から来たスペイン人が相まみえたのが東西の接点であるなら、インドネシアでヨーロ ッパとインドネシアの文明が溶け合った場所がインドネシアにとっての東西文明の接点で あったとも言える。[ 続く ]