「チカラン物語(前)」(2018年11月08日)

1970年中盤、ジャカルタへの住民移住が首都ジャカルタに人口爆発の危機をもたらし
た。流れを分散させるために、首都の外郭に新たな経済センターを打ち建てなければなら
ない。

ブカシ市東方20キロの距離にあるブカシ県チカラン郡に白羽の矢が立った。ジャカルタ
からだと50キロの距離だ。東・中部ジャワとジャカルタの間にあり、しかもジャワ島北
岸街道に沿っている。おまけにその南方はレンガなどをメインにした建築資材と園芸作物
栽培生産地区、北方は農業地帯という地元産業の中間点にも当たっている。


1976年、当時のブカシ県令はジャボタベッアーバン地区開発計画の中にチカラン郡を
挿入した。そこはもっと人口が増えてほしい地区なのである。そのためには工業団地を設
けて工場を誘致し、工場労働者の集まる土地にしなければならない。農業セクターをサポ
ートする産業が優先され、汚染をもたらす産業は敬遠された。

1977年、ブカシ県はチカランにバスターミナルと中央市場を建設し、工場誘致を開始
する。西ジャワ州最初の工業団地は民間資本で設けられた。3千Haの工場地区はルマア
バン〜チビトゥン〜チカランの一部をカバーする広大なものだった。

しかしそんな無人の原野が潤沢にあったわけではない。地元民の所有地に対する土地収用
は明け渡しから追い立てまで、さまざまな形で行われた。最初は平米当たり3〜5千ルピ
アの土地相場が、8千〜1万2千にまで上昇した。ルピアの対米ドル交換レートが6百ル
ピア台だったころの話だ。


南チカランのパシルサリ村住民のひとりは、かれの地域の土地収用は1986年に始まっ
たと物語る。かれの一族が持っていた7Haの土地はそのとき平米2千ルピアだったが、
1991年に支払いが行われたとき、金額は2倍になっていたそうだ。そのころでもルピ
アの対米ドル交換レートは2千ルピア前後だった。当時かれが住んでいた場所はジャバベ
カ工業団地のすぐ裏にあたる。

5千Haの広大な土地に1,650の企業が立ち並ぶ壮観を、かれは想像もしていなかっ
た。今ではそこに国内はもとより、米国・日本・フランス・イギリスなどのメーカーがひ
しめいている。かれは団地内の5つの企業の株を持ち、工場から出る金属や木材廃棄物の
引取り権を持っているそうだ。

ジャバベカ工業団地株式会社がチカラン工業団地の開発に着手したのは1990年に入っ
てからだった。工業団地に関する1989年大統領規則第53号の規定に則してジャバベ
カは、廃棄物処理・上下水・電気・電話などのインフラと13キロの道路を完備している。
[ 続く ]