「言語占領」(2018年11月08日)

ライター: インドネシア大学文化科学部教官、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2012年2月3日付けコンパス紙 "Menduduki Bahasa"

インドネシアにおける日本軍占領の歴史は、1942年1月12日東カリマンタンのタラ
カン島への進撃から数えてまる70年が経過した。大日本軍は翌月ジャワ島に進攻して軍
事政府である軍政監を置いた。占領の動機は経済、中でもタラカンの石油のような、工業
に必要とされる天然資源の入手にあった。面白いのは、その目的達成のために軍事政府は
文化に根ざすプロパガンダを用いたことだ。

日本軍占領史の中で頻繁に取り上げられることがらのひとつがインドネシア語の地位に関
するものである。青年層がインドネシア語に統一言語の地位を与えたことがトラウマをも
たらしたためにインドネシア語の使用に制限を加えたオランダ植民地政庁とは違って、日
本軍政レジームはインドネシア語を公用語として使うよう後押しした。反対にbahasa 
moesoeh(敵性語)、他でもないオランダ語、は厳禁された。インドネシア語は宣伝プロ
グラムの中で、村落部住民に適していると見られたラジオ・映画・演劇・紙芝居・歌など
さまざまなメディアの中に使われた。都市住民への媒体は印刷物だった。

毎日およそ2時間くらいインドネシア語のラジオ放送があり、ニュース番組でスタートし
てから政府の広報、そして娯楽番組と続いた。そのほかにもジャカルタのラジオ局ではジ
ャワ語とスンダ語のニュース番組があった。新聞アジアラヤには毎週一回、日本人作家イ
ソベ・ユージ氏のコラム「ニウルムランバイ(Njioer Melambai)」がインドネシア語で掲
載された。あたかも、日本人ですらインドネシア語に関心を寄せているのだというメッセ
ージがそこから読み取れる。ただし後日、イソベ氏の原稿は最初に英語で書かれ、インド
ネシア人作家で新聞記者でもあるダルマウィジャヤ氏が翻訳していることが判明したのだ
が。


ともあれ、占領軍政府がインドネシア語の使用を勧めたことは反論の余地がない。とは言
っても、これまでよく耳にしたような大喝采をするほどのものでもない。というのも、占
領時代に有意義なインドネシア語の発展は見られなかったのだから。たとえば綴り方のよ
うな初歩的なことがらですら、植民地時代に使われてきたファン・オパイゼン綴りを変え
ることもできなかったのだ。スラバヤの新聞Soeara Oemoemの名称を宣伝部が変更させ
たとき、出てきたのはSoeara Asiaという名称だった。/oe/の綴りは維持されたのである。
Batavia, persdient, maskapai, opisir (officieel) などのオランダ語に由来するいく
つかの単語も軍政監の公式文書の中に散見される。

日本が言葉を通してその影響を刻み込もうとしたのは明らかだ。そのためにインドネシア
語の普及は日本語とのバーターを余儀なくされた。ラジオで子供たちは、まるで日本語の
基礎を学ぶかのように、歌を教えられた。事務局の表に掲げられたPoesat Keboedajaan
の文字の下には日本語名称の啓民文化指導所が漢字で大書された。行政区画の公式用語を
軍事政府は自分たちの言葉で定めた。keresidenanはsyuu、pemerintah kotaはsyi、distrik
をgun、kecamatanはson、desaはku、daerah istimewaをkociというように。機関名や役
職名なども例外ではない。

レジームと言語との間にタダメシは存在しない。同様に、占領軍支配者が言語振興に隠れ
た意図を持っていたとしても、驚くにはあたらない。よく起こるのは、帝国主義とポスト
コロニアリズムの中のバーバラ・ブッシュのように、植民地主義者がターゲット先の言語
をポジティブな形、つまり利用するか、その反対に消滅させるかして言語占領することな
のである。