「困惑するムラユ語」(2018年11月14日) ライター: リアウのムラユ語を母語にする文学者、タウフィッ・イクラム・ジャミル ソース: 2012年3月30日付けコンパス紙 "Andai Anda Melayu Riau" それまで自分のものと認識していたものが、姿かたちもまったく変化せず、おまけに依然 としてあなたのものだと言われながら、突然他人のものになり替わってしまったら、どう 感じるだろうか?リアウのムラユ人はそれをさまざまな角度から体験したのである。経済 や政治面のみならず、言語までも。 要するに、インドネシア語はリアウのムラユ語をベースに置いた。その事実は言うまでも なく、少なからぬリアウのムラユ人の意識下にインドネシア語はリアウのムラユ語である という認識を持たせた。インドネシアの文学スターのひとり、サパルディ・ジョコ・ダモ ノがその著作の中で述べた、インドネシア語が子供のころからの母語となったのはリアウ のムラユ人とジャカルタ人だけではあるまいか、という言葉は実に的を射ている。 ただし、インドネシア語を母語とするという点を較べるなら、リアウムラユ人とジャカル タ人の間にたくさんの違いがあることに気付くだろう。リアウムラユ人にとってはインド ネシア語を使うとき、その内面に根源的所有意識が存在している一方、ジャカルタ人にと っては種々の多様性の上に載った母語になっている。 リアウムラユ人が全国紙や雑誌を読んでいるときの状態を想像してほしい。呼んでいる紙 面の中にseronokという単語が登場したとき、どんな気持ちが起こるだろうか?リアウム ラユ語でseronokはひとを心地よくさせるものごとを指す言葉だ。ところが紙面に登場し たseronokはポルノグラフィという理解にひとを導く単語にされている。 あるいはsumpah serapahというフレーズを見出すかもしれない。インドネシア語の中で そのフレーズは怒りに関連して起こる振舞いを表現する語句として使われる傾向が高い。 ところがリアウムラユ語でその言葉は「おまじない」に関連して出現する語句なのである。 怒りに関連して使われるフレーズはsumpah seranahなのだ。その違いはただ一個の音素 -p-と-n-の差でしかないのだが。 この種の話はいくらでも引き出してこれるのだそうだ。しかしそんな例はインドネシア語 の発展という方向性から見たとき、インドネシア語の母体となった言語に必要以上に執着 しないという姿勢を示すものとして納得できるにちがいない。同じようなことは外来語の 受容において、他の地方語を含めてその語の源語から変化した形で取り込まれている実態 を見るにつけ、われわれはそこに一貫した姿勢を感じる取ることができる。 このような事実に直面して、リアウムラユ人はどうすればよいのだろうか?ましてや、リ アウムラユ人文筆家であるならば。結局のところ大部分のリアウムラユ人自身が自分の母 語を離れて、インドネシア語として変化してしまったその言葉の語義に合わせる形で使う ようになっているのが実情なのである。もちろん、大勢に合わせるほうが容易に理解し合 えるのだから。しかし他面では、?意識するとしないとに関わらず、社会学的心理学的見 地から言語面での理由でその状況を本心からよしとはしていないのである。 この問題のためにひとびとの思考と感情は悪循環に陥って堂々巡りを続けている。それが 創造性に悪影響を与えているのは言うまでもない。あなたもきっと困惑するにちがいない。