「国語とは(前)」(2018年11月15日) ライター: ジャーナリスト、マスメディア言語フォーラム主幹、TD・アスマディ ソース: 2006年7月21日付けコンパス紙 "Bahasa Nasional" アメリカ合衆国の国語は何か?英語とだれもが答えるだろう。その答えは正しいのだが、 それは2006年5月18日以降のことなのである。それ以前にアメリカ合衆国に国語は なかった。 かのアンクルサムの国が国語なるものを持ったのは、その日が発端だ。独立してから23 0年も後のことなのだ。議会は2006年5月18日にオクラホマの共和党議員ジェーム ズ・インホフが提議した議案を賛成多数で可決した。賛成票64、反対34だった。 英語を国語にしようとする動きは、決してスムースなものでなかった。決議採択の場で議 員の多くは、アメリカが持つ人種のるつぼ的性格が言語にも反映されることを望んでいた。 アメリカではさまざまな言葉が話されている。かつてスペイン語の国歌が出現したことが あるのも、なんら不思議なことでない。 英語が最多使用言語であれば、その次はスペイン語であり、それをドイツ語等々が追って いる。それらのあらゆる言語が生存権を得ている。英語のわからないひとびとに対して政 府は、求められる法令をその言語に翻訳している。英語を話さない地域からの移住者の増 加は非英語話者人口を増加させ、英語話者の心理的圧迫が強まる原因になっていた。 1981年は英語を国語にするための運動の初期にあたる。カリフォルニア州のSIハヤ カワ共和党議員が発起者だったが、うまく進展しなかったためにかれは振興機関としてU Sイングリッシュを設立した。English Only MovementやEnglish Firstなどがそれに続い た。かれらは年々その運動を推進した。反対者の筆頭はスペイン語話者階層だった。 ネオ保守主義の台頭が国語制定運動を後押しした。ましてや、ブッシュ大統領自身がその 方向性の支持者だったのだから。そして議会での国語制定がクライマックスになった。 国語に関して言うなら、インドネシアの方がその先輩格だ。1928年に当時の青年たち は「ひとつの国家、ひとつの民族、統一言語の奉持」を誓ったのである。そのSumpah Pemudaの語も、元々はsumpahでなくikrarが使われる計画だった。1945年憲法で国 家の公用語を定めるのも、きわめてスムースに進んだ。[ 続く ]