「国語とは(後)」(2018年11月16日)

この国語制定の流れは歴史に支えられたものだ。1928年の二年前に開かれた第一回青
年会議で、青年たちは既にその考えを合意していた。ただ、それをどのように言い表すの
かについての議論が、1926年に青年の誓いが声明されることを妨げたのである。イン
ドネシア語と呼ぶのか、それともムラユ語と呼ぶのか、ということだ。ムハンマッ・ヤミ
ン、ジャマルディン・アディヌゴロ、モハンマッ・タブラニ・スルヨウィチトロ、アルメ
イン・パネたちで編成された検討チームがそのとき合意に達していれば、青年の誓いは1
928年という年号でなく、1926年として歴史に刻まれていたのである。

インドネシア語という言語が突然出現したわけでは決してない。元々ヌサンタラの諸港で
は通商に際して、ムラユ語が共通語として用いられていた。ジャカルタ、ポンティアナッ、
バンジャルマシン、マナド、マカッサル、テルナーテ、アンボンなどが、通商航海で立ち
寄る港だった。それぞれの場所で、ムラユ語は地場が持っている特徴と溶け合った。現在、
ブタウィ語・マナド語・バンジャル語・マカッサルムラユ語・アンボンムラユ語などで呼
ばれている、ムラユ語をベースに置くバリエーションがそれだ。

ヌサンタラを侵略した支配者が地元民とのコミュニケーションに困難を抱いたとき、ムラ
ユ語が使われた。かれらが各地に作った学校でも、ムラユ語が教育内容を生徒に伝えるた
めのメディア言語に使われた。こうして元々はリアウからマレーシアのジョホールにかけ
ての一円における地方語であった言葉が、オランダ語に次ぐ第二のメディア言語となった
のである。

民族独立の運動家が出現するようになると、かれらもムラユ語をコミュニケーション言語
に選択した。マスメディアもムラユ語を選んだ。そしてそこに使われている先端言語を運
動家たちはインドネシア語と表現した。1926年2月、記者モハンマッ・タブラニは
「共通の理想である国家と民族を一体化させる媒体として、ムラユ語でなくインドネシア
語が必要とされている。非ムラユ語種族がムラユ語の支配下に落ちたという感情を抱かな
いようにするために、インドネシア語という名称を使わなければならない。」と新聞「ヒ
ンディアバル」に書いている。

いまやインドネシア語は、コミュニケーション言語・政府行政の中で使われなければなら
ない公用語・教育界における媒介言語の地位を確立している。その点においてわれわれは
アメリカ合衆国をしのいでいる。特に国政高官たちはいつでもどこでもそうするように期
待されているのである。だからこそ、公式の場で国政高官の口から"I don't care."の言
葉が洩れたり、"Busway"計画や国有事業"Award"などの言葉がしゃあしゃあと使われる状
況はふさわしくないのである。それに対応する言葉がわれらの国語の中に存在しているの
だから。[ 完 ]