「ポカメアメ(前)」(2018年11月22日)

ライター: 詩人、エッセイスト、ダミリ・マッムッド
ソース: 2016年2月20日付けコンパス紙 "Bahasa dan Dongeng"

言語は長い文化発展史の過程そのものだ。「言語は民族を表す」は実に的確な言葉なので
ある。長期に渡って使われてきた単語を別のものに置き換えようとするのは、意識すると
しないとに関わらず、文化の連鎖を断つことになる。つまり言語とは、そこから民族の足
跡とビヘイビアを見ることのできる、ひとつの文化的表出なのである。イギリス人はどう
して祖国をfatherlandと呼び、われわれはどうしてIbu Pertiwiと呼ぶのか。言うまでも
なく、個々の文化の根に関する長い説明が必要になる。

インドネシアは農業国で、それが国民の生計基盤になっただけでなく、言語基盤の役割を
も担った。商業連盟や組織の多くは州や県に作られた分所にkantor cabang, anak cabang, 
ranting, anak ranting, という枝分かれする木の部分名称を使った。buah, biji, bunga, 
butir, pucuk, などの栽培植物に関する名称も沢山使われた。sebuah rumah, sebuah mobil, 
sebuah komputer, buah baju, buah tangan, sebutir pil, sepucuk senjata, bunga hati, 
bunga uang, sebiji besi, などとわれわれは言う。われわれの言語は農業民族言語なのだ。

若者世代はsebuah rumah, sebuah mobil, sebuah komputer, などの言葉を不思議に感じる。
自動車は木になったものなのか?かれらはそんな用法に虚偽を感じて、行き着くところは
助数詞の変更となった。satu unit mobil, satu unit komputer, unit kerja, 等々のよう
に。


ある有名なパントゥンを若者世代に示しても、もう意味が通じなくなっている、と講演の
中で語った言語学者のことをわたしは思い出した。Kalau ada sumur di ladang, bolehlah 
kita menumpang mandi, kalau ada umur panjang, bolehlah kita bertemu lagiというパン
トゥンの中のsumurというものを若者は知らない。今や蛇口をひねってシャワーを使う時
代なのだ。言い換えるなら、そのパントゥンはかれらにとって虚偽になってしまっている
のである、とかれは語った。

うわあ。わたしは唖然とした。たとえばイギリスの演劇グループが汗みずくをものともせ
ずに、今や時代遅れで滑稽でもあるハムレットやオフィーリアの衣装を舞台の上で着て見
せるのは何のためなのか?sumurとはいったい何で、われわれの伝統文化の中でどんな機
能を果たしていたのかを説明するのがかれの務めではないのだろうか?


Pok Ame Ameの歌詞を問題にするひとと話をしていて、わたしは感無量になった。第三連・
第四連の詞は言っていることがおかしい、とかれは言う。
susu lemak manis 
bersantan kelapa muda
adek jangan menangis
diupah tanduk kuda

ミルクを飲むのにサンタン?(ココナツミルク)を混ぜるのか?もっと変なのは、若いココ
ナツにサンタンがあるだって?おまけに馬に角があるんだって?

これはわれわれが伝統文化から切り離されたことによって起こった浅薄化だというのがわ
たしの解釈だ。かれが疑問を呈した歌詞や表現はすべて、その文字通りの意味でしか理解
されていない。しかしかれが話題にしているのはわらべ歌の歌詞であり韻文なのである。
そこには述べられていない言葉があり、想像と空想に満ち満ちているのだ。[ 続く ]