「セクシーなペチャ鼻(前)」(2018年11月26日)

ライター: バリ在住芸術研究家、ジャン・クトー
ソース: 2018年3月25日付けコンパス紙 "Erotika Hidung dan Identitas"

インドネシアにいる白人のひとりとしてわたしは、文化と人種の間に意味のある差異は存
在しないことを主張して時間を費やすことがある。1789年のフランス革命が遺したユ
ニバーサルな夢と、人間は誰もが同じ神の子である(1945年パンチャシラ)というイ
ンドネシアに特徴的なユニバーサルな夢の一体化に努めているわけだ。

昨今、そのユニバーサリズムの確信に疑問を投げかけることを強いるできごとがあった。
いやいや、まあ落ち着いてください。あの宗教やこの宗教のどれが優れているなどという
ことを議論するつもりは毛頭ないのだから。そうじゃなくて、わたしが言おうとしている
のは、たいへん目立つ違いがあるというのにこれまであまり話題にされなかったこと、つ
まり鼻の話だ。


わたしはずっと以前から、妻がわたしを夫に選んだのはわたしの身に着いた知性が優れて
いるためだと、愚かにも思っていた。フランス白人特有の傲慢さだ!ところが最近、わた
しがどれほど間違っていたかということにやっと気付かされた。妻はこう語ったのだ。
「ジャンに出会ったとき、わたしが一番気に入ったのは鼻だったのよ。先が割れてるみた
いなその高い鼻。」

著名人になるのを夢見ていたわたしの鼻の形が、この女性大学教官には一番お気に召した
ことだったのだ。わたしは驚いた。すぐさまわたしの鼻は持ち上がり、同時にわたしの知
性の傲慢さはしゃがみこんだ。続けてかの女はこれまで出会った素敵な鼻の持ち主につい
て話した。わたしのしゃがんだ体勢が一段と低くなった。わたしの精神に異状が起らなか
ったのは幸いだ。その体験がわたしの思考を回転させはじめた。


最初は頭部のエロティシズムに関することだ。インドネシア古来のコンテキストにおいて、
愛しい者の耳を噛んだりしてはいけない。憤激が返って来ることになりかねない。額や頭
頂を撫でさすってはいけない。そこは生命の出入りする場所であり、侮蔑したと思われる。
チュッチュしてもならないのだ。気持ち悪がられる。

さて鼻はどうか。ノープロブレム。自由にしていい。左右上下にこすってもかまわない。
しかしもっとも好まれるのは、異性の鼻にキスすることだ。つまりヌサンタラで鼻は疑い
なしにエロティシズムの焦点になっているのだ。[ 続く ]