「ナフム・シトゥモラン(後)」(2018年11月30日) かと言って、ナフムの曲がバタッの伝統を捨て去っていたわけでもない。伝統的バタッ歌 謡が持っている応答型曲構成を使った作品もある。たとえば同時代の作曲家ティルハン・ グルトム(Tilhang Gultom)の作風と比較すると、ティルハンは伝統的バタッの音と響きの 世界に親しみ続けたのに対し、ナフムはモダンな音とリズムの世界に踏み込んで行ったと 言うことができる。 ナフムはジャカルタとバンドンに学び、メトロポリタンの息吹を胸いっぱいに吸った。そ れがかれの音楽生活と個人生活のスタイルをメトロポリタン的でコスモポリタン的でもあ るものにした。しかしその奥深いところでバタッ族という自分のアイデンティティをかれ は鮮明に維持し続けた。かれの作品Jakarta Nauliの中でかれは、ジャカルタのきらめきも メダンへの郷愁を消すことはできない、と歌っている。 メダンでかれはクダイトゥアッ(kedai tuak)のスーパースターだった。ヤシ酒を汲み合い 仲間と触れ合うことを求めてクダイにやって来る一般庶民の生活をかれらの会話のやりと りからうかがい知ることは、ナフムにとって新たな曲想を得るためのエネルギーだったよ うだ。 クダイで得た曲想や詞をかれはその場でタバコ巻紙に書き記した。かれがそれを歌うと、 その場に居合わせたひとびとは聞きほれて喝采した。ナフムがどこのクダイに居るのかを 知って、わざわざそこへやってくるファンもいた。およそ2百ほどあるかれの作品の中で、 そうやって作られたものも少なくない。 西洋音楽の要素を多分に採り入れながらも、ナフムの作品はバタッの香りを強烈に発散さ せている。歌詞がバタッ語だからというだけの理由ではない。トバ湖とサモシル島が作り 出すバタッの天然の美の中に育まれてきたバタッ文化の子が民衆の暮らしの喜怒哀楽を歌 い上げるとき、バタッ人のアイデンティティが必ずその底辺に漂うのである。[ 完 ]