「多様性を構成する閉鎖的同質集団(前)」(2018年12月18日)

ライター: バリ在住芸術研究家、ジャン・クトー
ソース: 2018年11月18日付けコンパス紙 "Risiko Politik Agama"

Len jani di Bali, liu anak Jawa nyambret turis. 「バリは変わった。多くのジャワ人
が旅行者にひったくりを行っている。」耳に心地よくない言葉だが、それが往々にして現
実社会の一部になっている。種族・宗教・人種の異なる「よそ者」は差別され、あれこれ
ネガティブな性質を持っていると疑われる。

この現象にどう対処すればいいのか?もっと適切な言い方をするなら、より的確に対処す
るためにどう考えたらよいのか?

それを考えたとき、バリの社会ダイナミズムについて語ったジャワの青年社会学者の言葉
をわたしは思い出した。かれの話はこうだ。「ジャワ人がバリ人の家の近くに来て定住す
るとき、ひとりだけならまったく問題ない。それがふたりになっても、三人になっても、
ノープロブレムだ。ところが十人になったら、バリ人は自分を異邦人と感じる。そのバリ
人は文化資本を喪失したように感じて、かれの方が引っ越して行く。」

つまりバリ人の居住地区はそのようにして外来者に明け渡されるのである。われらの若き
社会学者ブルデュー氏の文化資本コンセプトを素朴に参照するなら、インドネシアの現実
社会の相貌がそこに示されているのに気付くだろう。インドネシア人高学歴知識層は種族
・宗教・民族の違いを乗り越えて社会交際ができるだろうが、マジョリティ国民は社会ダ
イナミズムに直面して自分の出自である種族・宗教コミュニティの周辺、つまり自分の所
属する種族と宗教アイデンティティの中でスクラムを組むことを選ぶ。

その実態は、多種族社会の経済進化がゆっくり進行し、移住の波が小さいうちは問題を生
まない。相寄り添った諸コミュニティが慣習の中に標準化された特定のコミュニケーショ
ンと支配のパターン、たとえば他グループの宗教行為、女性、共同祭事、等々に対する姿
勢を組立てるだけだ。その結果、異種族・異宗教グループとの間にバランスが生まれ、そ
れはたいていトラジャやかつてのアンボンのように長持ちする。

ところが現代のように(携帯電話器、グローバリゼーション、アーバナイゼーションのお
かげで)歴史に加速が起こると、そのようなバランスは容易に揺れ動く。その理由は単純
なことだ。各コミュニティの技術・一般知識・技能・社会資本などの歴史遺産を擁する文
化が別々であるからなのだ。つまり政治経済支配ソースへのアクセスが同じでないのであ
る。[ 続く ]