「カキリマ(2)」(2018年12月26日)

その5フィート歩道がムラユ語に翻訳されるとき、おかしなことが起こった。まず英語の
foot(feet)が原意である足のムラユ語kakiに翻訳された。続いてfive feetがムラユ語の
DM法則に従ってkaki limaとされてしまった。現代インドネシア語で数詞はMD法則に
従うから英語と同じ語順でよいのだが、既に定着してしまった以上、これは固有名詞扱い
せざるを得ない。

英語の長さの単位であるfoot(feet)がkakiと翻訳されたことで、わたしはガルーダ航空に
乗るたびに奇妙な想像を強いられるはめになったことを付け加えておこう。飛び立って水
平飛行に移ったとき、スチュワーデスがアナウンスする。日本の航空会社なら「当機はた
だいま高度1万メートルで飛行中です。」と言うところ、インドネシア語の場合は「33 
ribu kaki 」と言ってくれるからたまらない。わたしの脳髄は機体の外側にむかでのよう
に、数限りない足がもぞもぞとうごめいている、いかにもおぞましい光景をついつい想像
してしまうのである。


植民地時代にPKLがカキリマを占拠して商売に精を出すことはまずなかったらしい。歩
行者のための歩道を物売りが塞ぐようなことをオランダ人が許すはずもない。それどころ
か、物売りは商店街にしろ住宅地にしろ、大声で通行人の注意を引いて売り込もうとする
から、うるさくて不潔なプリブミがうろうろするのを嫌う住民や商店主は努めてかれらを
追い払おうとした。もちろん追い払うのは警官だ。そこに人種差別の影を見つけるのは容
易なことだろう。

今の大都市生活に見られるPKLの数ブロックに渡る歩道占拠など想像もできなかった時
代ですら、そんなものだった。19世紀後半から20世紀はじめの数十年というのは、プ
ダガンピクラン(pedagang pikulan)と呼ばれる担ぎ売り商人がまばらに路上を徘徊してい
た時代だったようだ。ところが1930年代の大恐慌の時代になってからPKLが激増し
たという記録が残されている。


2013年のデータだが、全国のPKLは2千2百万人と推測されている。そして商売場
所や商品、あるいはその他さまざまな要因のために一概に言うことはできないものの、ジ
ャカルタのPKLの中には企業のマネージャークラスの収入を得ている者もいる。[ 続く ]