「インドネシアのサンタクロース(1)」(2019年01月07日)

クリスマスにはインドネシアにもサンタクロースが来る。もちろんキリスト教徒の家庭に、
だ。ムスリムの家には来ない。

とは言っても、キリスト教がマジョリティ文化をなしている地域に移住したムスリム家庭
は、明白な拒否姿勢を打ち出さない限り、サンタクロースが訪れないともかぎらない。そ
してサンタクロースはそんな家庭に、宗旨替えと言うか信仰替えをしてわれわれの仲間に
入ったらどうか、という言外の誘いを示すこともある。

このようなことは杓子定規の観念論で割り切れない面があり、共同体社会の生活文化から
宗教というものを断捨離してしまった民族にとっては、なかなか実感の持てないことがら
であるに違いない。宗教を個人の精神生活のみの中に封じ込めて社会文化から追放し去っ
たからこそ、生活感という実感の伴われない観念論をひねくり回すことに熱中するのだろ
う。


インドネシアのような複合種族・複合文化国家の中で、しかも宗教国家であることを否定
して宗教を精神と文化の基盤に据えた世俗国家という、並の観念論者には訳も分からない
ありさまになっているインドネシアの国の中で、社会が宗教単位で分裂していると思うの
は、木を見て山を見ない姿だろうとわたしは考える。

各宗教界の中心部分に自己中心・他者排斥の傾向が存在しているのは当たり前の話だが、
末端草の根庶民の生活は、一部エキセントリック連中を除けば、もっと平衡感覚のあふれ
たものになっている。和して共存しようという、成熟した人間の姿がそれであるにちがい
ない。

インドネシア人ムスリムの中にも、クリスマスの夜のロマンチックな雰囲気を好む人間は
少なからずいて、クリスマスツリーに点滅電飾を飾って喜んでいるひともいる。わたし自
身がそれをこの目で見ているのであって、これは決して観念論ではない。

バリ島に住んでいるムスリムが、イドゥルフィトリの義務である喜捨を行うのに、近所に
住むヒンドゥバリ人の貧困家庭に贈り物をして義務を果たしている姿も目にしている。社
会が宗教単位で分裂していないからこそ、起こりうる姿だとわたしはそれらを見ている。
[ 続く ]