「アナクラカタウ津波と自己責任(後)」(2019年01月09日)

12月22日の津波の直前でさえ、地元観光業界は火山見物を売り物にしてツアーをプロ
モートしていた。12月第二週には報道界を誘ってアニエル=クラカタウ・ファンツアー
を実施し、ジャーナリズムはそれに応えて旅行記を掲載し、記事には「危険はない」の一
言が添えられていた。

2015年に地学気候気象庁がアナクラカタウのリスクに関する社会告知を行ったところ、
地元観光業界が強く反発して気象庁に苦情を申し入れたという話もある。そんな状況に置
かれている国家機関に、津波警報が早かった遅かった、途中で解除した、犠牲者が多かっ
たのはそのせいだ、などと非難したところで、社会態勢の方にメスを入れて行かなければ、
単にスケープゴート作りに精を出すばかりのことになりかねないのではあるまいか。

但し、今回起こったようなことは、1883年8月27日の世界に名高いクラカトア火山
大爆発と大津波の際にもあった出来事らしい。その当時、オランダ領東インドを動かして
いたのはオランダ人であり、つまりはオランダ人ですらそんなものだったのだ、という話
がこれである。


1883年5月ごろからクラカタウ火山の噴火活動が激化し始めた。蘭印蒸気船会社はそ
れを商機と見た。バタヴィアからクラカタウ島に向けて観光客船の運行を開始したのであ
る。GGロウドン号は連日、火と煙を吐き続けているクラカタウ島に向かった。

乗客のひとりが体験記を書きのこしている。かれは1883年5月27日夕刻、バタヴィ
アを出発したGGロウドン号の中に、他の85人の乗客たちと一緒にいた。クラカタウ火
山ツアー第一回目の航海だ。

夜の間にクラカタウ島まで来たGGロウドン号は朝になってから錨を降ろし、船長はスコ
ッチを用意して希望する乗客を島に送った。振動を続ける火山の麓の土を踏んできた上陸
客たちは、世に稀なその体験に興奮していたようだ。

こうしてGGロウドン号は最期の日まで、バタヴィアとクラカタウ間を往復した。8月2
7日にその最期がやってきた。巨大な山が大爆発を起こして砕け散り、数十メートルに盛
り上がった大波が八方へ波紋を広げたとき、GGロウドン号は111人の乗客を乗せてス
ンダ海峡の海上にあったのである。[ 完 ]