「家計を支えるためには全員参加」(2019年01月11日)

子供は親を選べないのだが、親だって子供を選べない。離れた所に実は落ちないのだから、
出てきた芽はありのままに受け入れざるを得ないのである。

インドネシアの家族主義はきわめて濃厚で、兄弟は他人の始まりという言葉ほどインドネ
シア人の価値観に不適切なものはない。インドネシア人と結婚してインドネシアに住んで
いる日本人が日本にいる兄弟姉妹とほとんど音信不通状態で暮らしているのを、インドネ
シア人は不思議な現象を見るような目で眺めている。インドネシア人は四十になろうが五
十になろうが、普段から互いに行き来し、遠くにいれば電話し合い、子供のころそうだっ
たような関係を続けている。

子供時代とおとなになった後では、人間としての姿勢やあり方が変化するのは当然だとい
う観念を、インドネシア人は何となく一貫性の放棄という感触で受取っているようだ。つ
まり変節漢というものの見方ではないかと思われる節がある。成長とは変化なのだと説明
しても、眉に唾が付いたような表情になっている。その文化的価値観の差異を縮めて行く
のは、並大抵のことではない。


親子兄弟親族一族はむつみ合い、助け合って生きて行くものだという信条が高位の社会善
になっていることが、家族というテリトリーの外が危険なジャングルであるという状況と
裏表の関係を作り出しており、おかげで個人対社会の関係には食うか食われるかの関係が
色濃くつきまとうことになる。

そのせいで、ひとりの個人が社会に対して悪を犯し、世間が非難を浴びせてきたとき、一
族親族は問答無用でその個人の弁護擁護姿勢を世間に対して取るのである。このようなあ
りさまでは、個人が社会に対して持つべき姿勢や価値観が生育しないだろう。

家族というプラットフォームの上で、構成員ひとりひとりは保護者と奉仕者の役割を担う。
いわゆるパトロン=クライアント原理であり、年齢と性別の序列に従って、だれがだれの
パトロンで、そのクライアントになるのはだれか、ということが決まってくる。だから中
間帯に位置する者はみんな、だれかのクライアントになり、同時にだれかをクライアント
に持っている。


一家一族の家計が裕福でない場合は、家族構成員が経済活動を手伝おうとする。得た収入
は一家一族のものが前提だから、かれらは往々にして自営業における無報酬(無給)労働
者になる。

2017年社会経済調査の結果によれば、首都ジャカルタで家計の収入源泉が家族全員の
労働だと答えた家庭は91.9%を占めた。出稼ぎ者の送金が4.7%、投資で家計をま
かなえている家庭は0.7%だけだった。

家計収入のメインを稼いでいるのはだれかという項目では、家長が80.7%だったが、
女性が家長の座に就いている家庭はそのうちの11.4%で、決して少なくないと言える。
家族メンバーの稼ぎが家長のものを上回っている家庭は19.3%あった。