「歴史に埋没した古代ローカルウイズダム(前)」(2019年01月31日)

中部マルク県レイヒトゥ郡はアンボン島の北海岸部に位置している。そこにはイスラム系
のヒトゥ王国が興り、15世紀から16世紀にかけて全盛期を印した。この王国の発祥は、
他地方から四つの種族が15世紀に順次移住してきて、協議の末にそこに王国を作ること
にしたという記録になっている。

ところが、そんな王国が作られるはるか以前の7世紀から10世紀ごろまでの間、海岸か
ら離れた丘陵地帯に原住民が住んでいたことを物語る遺跡が発掘された。そこは海抜1〜
2百メートルの高台であり、反対に高台から下った海岸部で同時期の人間の居住跡は一切
発見されなかった。

ヒトゥはどうやら、ヒトゥ王国が誕生するずっと以前からマルク地方の要港だったようで、
交易と海運で大いに栄えていたにちがいない。そこを支配しようとしてやってきた四種族
がヒトゥ王国を作ったということなのだろうか?

だが17世紀になってオランダVOCはアンボンに港を作り、通商と運輸を支配してヒト
ゥ港を衰亡に追いやってしまった。


国立考古学研究センターが行った旧ヒトゥ港から数百メートルの距離にある高台における
トム(Tomu)遺跡の発掘調査によってその新たな発見がなされたのだが、研究者はその現
象について、海岸部には古代から津波のリスクがあったために、昔のひとびとは安全を求
めて丘や山に居住したのではないか、との意見を表明した。

その意見は確かに納得性の高いものであり、スマトラ島インド洋側でもわれわれは類似の
現象に気付かされている。その典型例は西スマトラ州ミナンカバウ地方のパガルユン王国
であり、この王国は王宮を内陸の山中に置いて、海岸部を利用することはほとんどなかっ
た。パダンの町を行政と経済のセンターに仕立てあげたのはオランダ人であり、オランダ
人がやってくるまでパダンはただの港であって、貨物の通過ポイントでしかなかったのだ。

拙作「インドネシアのカレー」http://indojoho.ciao.jp/koreg/kari.html にもスマト
ラ島原住民のその奇異な習性が触れられている。引用すると:
「スマトラ島原住民は最初山岳部に居住して発展し、後になって海岸部へ進出したという
見解が専門家の間での定評になっている。世界中の多くの地方で一般的な海岸部の低地や
デルタ流域で農耕が発展したのとちがい、スマトラはブキッバリサン山岳部の高原にある
渓谷が農耕の発端だった。トバ湖周辺では水稲耕作が5千年も前から行われていたが、海
岸部で水田が作られるようになったのは16世紀以降であり、それもアチェ北部西岸の狭
い平地で始められている。」[ 続く ]