「宗教とは信仰か教義か」(2019年02月06日)

ライター: 言語教育学修士、ムリヨ・スニョト
ソース: 2013年4月5日付けコンパス紙 "Agama dalam Kamus"

アテイストの語義に関してKBBI第四版に難くせをつけたわが友ダヌ氏が、再び同じよ
うなことを言い出した。今回の標的はagama(宗教)とその語で作られた句だ。KBBI
版アテイストの語義を批判したときのように、かれは今回もOxford Advanced Learner's 
Dictionary of Current Englishを引き合いに持ち出してきた。「宗教の語義を説くのに、
オックスフォードは直接その真髄に斬り込んでいる。KBBIは真髄から遠ざかり、宗教
の形態的特徴に接近している。」かれはそう言う。

それに続くかれの説明はこうだった。オックスフォード辞典で宗教のキーワードは信仰心
だ。信仰心の対象は何か?全宇宙を創生した超自然力の存在だ。KBBIでは、教えがキ
ーワードになっている。何についての教えか?信仰のあり方を秩序立てる教えだ。ウォウ、
秩序つまり儀式のいかに重要なことか・・・・

オックスフォード辞典の論理に従えば、Saya beragama.とは「わたしは創造主を信ずる
(信仰する)。」だが、KBBI式だとその言葉の意味は「わたしは信仰のあり方を秩序
立てる教えを奉じる。」という意味になる。そのふたつの意義の違いの何と大きなことか。
前者はその中に創造主を示し出している一方、後者はあり方の様式を前面に押し出してい
る。


宗教という言葉を使った例句を比べてみよう。オックスフォード辞典にはひとつだけ例句
が引かれている。the great religions of the world、世界の大宗教で、キリスト教・イ
スラム教・仏教と三つの例が掲げられている。KBBIは例を6つ挙げた。agama abra-
hamik, agama budaya, agama langit, agama samawi, agama timur, agama wadi。KBB
Iのそれら例句を見た読者は知識を増やすどころか、反対に疑問を増やすことになる。問
題は、辞書編纂者がわがまま勝手に仕事をし、システマチックさを忘却してしまったから
だ。例示した句がある一方で、そのまま放り出された例句もあり、読者はagama wadi と
同義とされたagama budayaの例を自分で探さなければならない。

agama budaya/agama wadiの意味を辞書編纂者は明示しなかったとはいえ、そこで例句に
取り上げられたものは啓示宗教でないものであって、それ以外の何ものでもないことが感
得できる。されば、啓示とは何なのか、というのが次の疑問だ。

「この世に存在する数百の宗教のどの信徒であれ、自分の宗教は啓示に端を発していると
考えている。」ダヌ氏はその言葉を偉大なる賢者から聞いた。ゴータマ・シダルタが木の
下で瞑想した時に悟りを開いたことを、仏教徒は神の啓示だと見なしている。ダヤッ族の
カハリガン教徒も、その宗教の発端にあるできごとについて、仏教徒と同様の見方をして
いる。

更に深い考察を加えるなら、オックスフォード辞典は宗教の語彙を説明するのに、たいへ
ん注意深い姿勢を取っていることがわかる。学術的な語義解釈で、比較的測定しやすく読
者が読むのに妥当なものだけが例句に選択されていることだ。世界の大宗教というのは、
量的に責任の持てるものなのだ。ではあっても、ASホーンビー氏はその反対語である小
宗教にまで立ち入って議論を招くようなことを避けている。その言葉は例示された宗教の
信徒に落ち着きを失わせるものだからだ。

それらのすべてにも増して、KBBIが採り上げているような例句を差し控えているのは、
オックスフォード辞典がさまざまな宗教信徒間の和合や協調を提案する平和のメッセージ
を唱えているからである。辞書編纂者の見解は「The Religions of Man」著者のヒュース
トン・スミス氏のビジョンと同等だ。かれらは、天上の王国に由来するすべての源泉を尊
崇する地上のあらゆる宗教信徒に対する共感を示している。