「バンダ島は類まれな先進社会だった(1)」(2019年02月11日)

ナツメッグはマルク諸島のバンダ島が原産地だ。ヨーロッパ人がやってくるまでナツメッ
グはバンダ島住民に大いなる恩恵を与えてきたが、ヨーロッパ人がやってきて以来、バン
ダ島住民は悲惨な運命をたどることになった。

ヨーロッパ人がアジアに進出してくる以前、ナツメッグは他のスパイスと共にスパイスロ
ードを順繰りにバトンタッチされて、はるかなるヨーロッパに流れ込んで行った。アラブ
・ペルシャ・インドそして東南アジア一円の諸民族がナツメッグを得るためにバンダ島へ、
あるいは広くマルク諸島へ、更にはかれらにとってもっと近場のスラウェシ・カリマンタ
ン・ジャワ・スマトラの中継港へと集まって来た。

諸民族が集まる土地はメトロポリタンと呼ばれる。オランダ人に征服されてナツメッグが
独占されたとき、バンダ島のメトロポリタン性は変質した。オランダVOCはバンダ島を
通商のない農園の島に変えたのである。商業ベースのメトロポリタン性は農業ベースのそ
れへと変化したのだ。おまけに農業ベースのメトロポリタン性は更に深化して、アジア人
とヨーロッパ人を含むものになった。

バンダ島の農園事業に関わったオランダ人は数多い。かれらオランダ人男性たちは地元で
得られる女性を妻にして家庭を築き、混血の一家一門が世代交代を繰り返して行った。そ
して日本軍の占領、インドネシアの独立、更にオランダ資産は国有化され、そんな激動の
果てに、東インドにいたオランダ人は本国へ帰るしかなす術を持たなかった。


オランダ国籍者クレイ・パイス55歳とレイ・パイス60歳は兄弟だ。ふたりは一家のル
ーツを自分の目で眺め、自分の足で踏みしめるために、インドネシアを訪れた。

ふたりはまずジャカルタで、メンテンプロにあるオランダ人戦争墓地を訪れた。インドネ
シア独立闘争期に命を落としたオランダ国籍者のための墓地で、およそ4千3百の英霊が
そこに眠っている。

戦争墓地の中には集団墓地もあり、そのひとつクニガン集団墓地でふたりは大きな看板に
記された12人の名前の中からカレル・ウイレム・アレクサンダー・パイスの名を見出し
た。そこに葬られているひとびとは、1945年10月15日に西ジャワ州クニガンで起
こった事件で亡くなった。かれらの祖父はそのとき、そこにいたのだ。[ 続く ]