「胡椒、枯れるバンテンの栄光(1)」(2019年02月19日) バンテン州セラン市の町中から南西におよそ20キロ離れた場所にカラン(Karang)山があ り、その線をさらに10キロほど伸ばすとプロサリ(Pulosari)山がある。プロサリ山はパ ンデグランの町からだと15キロほどの距離だ。 ヒンドゥ=ブッダ文化を擁するスンダ王国がバンテンスルタン国に滅ぼされる前、重要な 商港バンテン港のあるこの地域を治めていた王は現在のセラン市南東部に当たるバンテン ギラン(Banten Girang)に王宮を置き、プロサリ山を聖地として宗教の務めを行っていた らしい。 ポルトガル人トメ・ピレスの旅行記によれば、1513年ごろのバンテン港は豊かな商港 で、スマトラからモルディブに至る諸国の船が寄港し、コメや食料そして胡椒を手に入れ ていたそうだ。 それよりはるか以前の1225年ごろ、中国の趙汝?は地誌「諸蕃志」の中で、スンダを 意味すると見られている新?は胡椒の産地であるというデータを書きのこしている。その 新?の正確なところがバンテン港だったのは間違いあるまい。 バンテンギランは港から10キロ余り南方の内陸部にあり、港と都の交通はチバンテン川 が使われていたようだ。1990〜93年に行われたバンテンギランでの発掘調査で、地 表から5〜7メートル下に埋もれていた陶器の破片が見つかった。それらの陶器は南宋か ら元の時代にかけて作られたものと見られ、スンダのヒンドゥ=ブッダ王国と中国の間で 盛んに交易が行われていたことをそれが物語っている。 1526年にバンテン港とバンテンギランの都はチルボンとドゥマッの連合軍に征服され てチルボン王国領になった。新たな支配者はただちに都を港の近くに移して一体化させ、 スロソワン(Surosowan)宮殿を建てて王権のセンターにした。 港における商業の統制と監視、ジャワ島北岸に点在するイスラム系港湾王国同士の連絡、 そしてかれらにとってはそれが当たり前の行政スタイルだったということなのだろう。 バンテンスルタン国がVOCの支配下に落ちて、VOCは1683年にスロソワン宮殿か ら6百メートルほど離れた場所にスペルウェイク(Speelwijk)要塞を建設して王宮に睨み をきかせるようになった。要塞を建てた地区はパマリチャン(Pamarican)という名前で、 そこは昔から胡椒の倉庫街だったところだ。[ 続く ]