「胡椒、枯れるバンテンの栄光(2)」(2019年02月20日)

1902年にオランダ人学者セルリエ(Serrurier)が記述したバンテンの町のありさまは、
都市計画の十二分に整備された場所だったようだ。町は全部で33の居住区に分けられ
ており、クバレン(Kebalen)はバリ人居住区、カロヤ(Karoya)はプリブミ居住区、カラガ
ントゥ(Karangantu)は外国人居住区というようになっていた。

1596年6月27日にバンテン港を訪れた最初のオランダ人コルネリス・デ・ハウトマ
ンは町のよく整えられた壮大さに目をみはり、アムステルダム並みだと述べたそうだ。

スンダ王国からチルボン領バンテンのスロソワン宮殿に港の主権が移っても、中国のジャ
ンク船は胡椒の大顧客であり続けた。ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバンテン港での
胡椒取引をVOC独占の形に進め始めたとき、中国船は力ずくで排除され、入港できなく
なってしまう。

バンテンスルタン国中興の祖と言われるスルタン・アグン・ティルタヤサの時代、かれは
オランダVOCの支配をはねかえそうとしてイギリスに友好使節を派遣した。1664年
に時の英国王チャールズ2世に拝謁した使節団が運んだ献納品は、黒胡椒100バハル
(7千キロ)とショウガ100ピクルだった。

使節団は援軍を得ることができなかったが、代わりに新鋭武器兵器を土産に持ち帰った。
それがスルタン・アグンの中興活動に大いに貢献したことは疑いがない。


バンテンはヨーロッパ人がやってくる前に、既に東南アジア域内の要港のひとつになって
いた、とインドネシア科学院歴史学者は語る。その地位はマラッカやアユタヤ、ホイアン、
厦門、堺などに匹敵するものだった。バンテンがその地位を得たのは、スンダ海峡という
地の利もさることながら、胡椒という商品作物の供給市場であった要素がたいへん大きい。

スンダ王国からバンテンスルタン国への移行は、胡椒が持った戦略性を高いレベルにまで
押し上げた。ジャワ島北岸に生まれたイスラム系の諸港市が基盤に置いた通商交易コンセ
プトにそれは密接にかみ合ったのだ。

こうして、整然たるバンテンスルタン国の都の中心部は1キロ四方の広さでしかなかった
が、華人・アラブ人・ポルトガル人・イギリス人・デンマーク人・オランダ人などが織り
なすメトロポリスの様相を呈したのである。[ 続く ]