「オルバ体制を支えた日本」(2019年03月01日) 外国投資高のほとんど4割が日本からのものである。総投資高68.3億米ドルの中で日 本はその25.8億を占めているのだ。1967年から77年1月までの期間に外国投資 企業は855社作られた。その中の208社は日系企業である。最大手の日本に追随する のは、米国・香港・フィリピン・オーストラリアという順になっている。 これは1977年2月19日にコンパス紙に掲載された記事だ。オルバ政権が開放経済主 義を抱えて国家の経済建設に乗り出したとき、日系資本が雲霞の如くインドネシアに押し 寄せてきた。 外国からのインドネシア支配を目指す侵略に過剰と思われるまでの警戒心を示してきたオ ルラ政権は、インドネシアが対抗できない外国巨大資本の進入の窓口を閉じ、当時世界を 区分していた諸ブロックの中の非資本主義的グループだけに傾いて、自由主義という名称 を冠していたブロックを敵視した。インドネシアという国の経てきた歴史とその位置付け を見る限り、それは当然すぎるほど当然の帰結だったようにわたしには思える。その構図 を自由主義対共産主義というメガネで観てしまうと、事の本質が見えて来ないのではある まいか。 外国に経済活動の門戸が開かれると、外国人がやってくるようになる。ジャカルタで外国 人の姿がまったく目に映らなかった時代、目に映るのは地方から首都に出てきて稼ごうと いうカンプン人間が作り上げるコミュニティばかりで、かれらが生み出す地域構造とその パースペクティブ、そしてそこで展開されるカンプンそのままの人間行動のために、ジャ カルタは巨大カンプンと呼ばれていた。そこに外国人がはいってくれば、多少とも変化は 起こる。だが変化は緩慢にしか進まず、結局のところ、カンプン生活になじまなければ自 分の生を生きるということさえ困難だった。それ自体は今でも変わっていないはずだが、 その時期ジャカルタに暮らした外国人の艱難辛苦は、今の駐在員には信じられない物語だ ろう。 1977年9月23日のコンパス紙は、ジャカルタに住む日本人の数がわずか数年間で倍 増したことを報道した。1973年の1,121人は74年に1,636人となり、75 年は2,122人で、76年には2,895人となったのである。73年にジャカルタに いた1,121人の中にわたしもカウントされていたのだろうか?