「あたかも英語のように」(2019年03月11日) ライター: スエーデン在住言語オブザーバー、アンドレ・モレン ソース: 2005年12月2日付けコンパス紙 "Nyanyi, Nanya, Nonya" 筆者はこのフォーラムで、インドネシアでますます頭痛を煽っている言語習慣に対して遺 憾を表明し、疑問を投げかけたことがある。その習慣とは、インドネシア語の言語様式に そぐわない形で英語をメインにする外国語が使われていることだ。たとえば未来の表現の 中に過去形の言葉が使われたり、現在形の言葉が先週起こったことの話の中に登場すると いうようなのが、その習慣の帰結である。 インドネシア人は今その状況を改善したいと望み、英語の接尾辞をインドネシア語文法に 取り入れて正しい形態に変えようと強い関心を抱いたようにわたしには見える。インドネ シア語話者が特に関心を向けたのは特定の数を問題にしないで表す複数形だ。英語文法に おける複数のsがインドネシア語の名詞に添えられるようになったのだ。英語の外来語に 対してそれがなされるのでなく、元来のインドネシア語に対して行われるのである。こう してtemansという、友人たちを意味する不可解なインドネシア語が出現した。インドネシ ア語が従来から持っている複数表現のteman-temanやpara temanでなくて、temansなのだ。 実にユニークだ。 このような新語が話者の耳にカッコよくて現代的な印象をもたらすことは想像がつく。実 は、インドネシア語の単語に複数のsが添えられることは、インドネシアニストが英語で 書いた文献をメインにして、もっと古い時代から行われてきたことでもある。かれら知識 人たちは英語の論文にヌサンタラで出会った単語を散りばめ、その複数形にはsを付けて いた。だからあるときあなたが「ジャワにあるmasjids」や「インドネシアのキヤイたち はいまだにkitab kuningsを使っている」といった英語の文章に出会っても驚く必要はな い。 それらの現象がわたしをいらだたせるものであるにせよ、英語の論文の中に出現している という要因から、わたしはまだそれを受け入れることができる。 しかしtemansはインドネシアニストの論文に出現してはおらず、インドネシア人自身の日 常生活の中で、話し言葉や書き言葉として出現するのがほとんどではないかという気がわ たしにはする。そこでの複数のsは正常な機能を果たさない。ところが現実にひとびとは それを好んでおり、それに慣れてしまえばインドネシア語文法本来の形に戻すのがむつか しくなるだろう。わたしはそれを無くせと言っているのでなく、この奇妙な用例が将来の インドネシア語にどのような影響を及ぼすのかということを推測するべきだと主張してい るのである。 英語文法をインドネシア語単語の用法に当てはめて使おうとする意欲をインドネシア人が もっと高めて行こうとするなら、更に奇怪な言語現象が起こるのを待つのに時間はかから ないかもしれない。たとえば英語の動詞に時制変化があるのをカッコいいと感じたなら、 何が起こるだろうか? インドネシア語のmenyanyiは英語のsingであり、singはsing-sang-sungという時制変化を する。そうなってくると、nyanyiもnyanyi-nanya-nonyaみたいな変化形が作られるかもし れない。dudukはduduk-didik-dadak、mulaiならmulai-milai-malaiというように。 しかしそんな変化形として使えそうな単語は既に別の意味を持つ語彙になっているものが ほとんどだ。より一般的な過去形の常用接尾辞にしても、Saya duduked di sana kemrin. のようにインドネシア語文の中に正しく使われているわけでもない。時制にせよ複数にせ よ、英語でそれらが示す様々な状況に対してインドネシア語は独自の表現方法とそれに使 われる語彙を豊かに持っているのであり、そんなことを行う必然性などさらさらないので はないか。 おおよその結論はこういうことだ。 一)ある言語の文法法則を別の言語の文法システムにそのまま持ち込むことなど、できは しない。 二)誤りや問題を避けようとして外国語単語をそのまま使うのは避けられるべきだ。 三)インドネシア語自体に言語ツールとして欠けている点はなく、それは十分に完備され たものなのである。 四)たとえ不十分な面が感じられたとしても、必ずインドネシア語体系の中でそれを補う ことができる。