「御者の議論」(2019年03月22日)

インドネシア語にdebat kusirという言葉がある。翻訳すれば「御者の議論」ということ
になるのだが、この言葉は普通、議論する者が互いに自論を強く主張して相手の論に耳を
傾けず、平行線をたどって結論が出ない、あるいは合意に達しない話し合いを指して使わ
れる。

つまり依怙地者同士の議論であり、おまけにどうやら自論としている根拠が間違っていた
り、思い違いや勘違いであるにもかかわらず、依怙地さが勝っているために折り合いがつ
かない、というニュアンスまで含まれている。

つまりインドネシアで昔、馬車を動かしている御者たちの知的レベルと性格がそのような
ものだったことを、この格言は表しているようだ。付け加えるなら、御者という言葉でそ
の議論に加わっている人間の知性品性を見下している表現のようにも、私には思える。

その昔、インドネシア独立闘争期の著名人、キヤイハジ・アグッ・サリム(KH Agus Salim)
が馬車に乗った。走っていると、馬が放屁一発。アグッ・サリム師は御者に、「馬が風邪
ひいているよ。夜はちゃんと馬小屋に入れてやらにゃあいかんね。」と言った。

すると御者は「風邪ひいてるんじゃねえですよ。屁をひったんだ。」と返事した。


インドネシア語で「風邪をひく」のはmasuk anginと表現し、「屁をひる」のはkeluar 
anginと表現する。このmasuk(入る)とkeluar(出る)という反意語が議論を招いた。
アグッ・サリム師はmasukを言い、御者はkeluarを言い続けて、折り合いがつかない。

どうやらアグッ・サリム師は「馬を大事にしてやれ」と御者に言いたいのだが、御者はこ
の客を「masukとkeluarの違いも分かれねえのか?」と馬鹿にしている風があって、意思
疎通の完全なすれ違いになったようだ。

このストーリーが「御者の議論」の語源だそうだが、例によって別バージョンがいくつか
あり、登場人物の違うものもある。アグッ・サリム師がやはり登場する別バージョンでは、
放屁したのは馬でなくて御者だったというものすらある。

アグッ・サリム師が気を遣って放屁の犯人を馬と言ったのに、御者はそんな気遣いすら無
視して犯人を馬にしてしまい、客の言う言葉に反対し続けたというストーリーで、これは
御者の品格というか人間性を更に貶めるものになっている。どうであれ、下層階級の人間
性がそのようなものであったのは事実だろうという気がわたしにはする。御者の議論の片
割れにはされたくないものだ。