「オム(後)」(2019年04月11日)

pakde, bude とはbapak gede、ibu gedeのことで、paklik, bulik とはbapak cilik, 
ibu cilik を意味している。つまり自分の両親より年上か年下かで分けるステータス区
分だ。中国でも同じ区分が使われて伯父伯母は両親の兄姉、叔父叔母は両親の弟妹とい
う別の文字が使われた。

オランダでは祖母の兄弟姉妹にもOom, Tanteが使われるらしい。一方、アンボンやミナ
ハサなどオランダ人が特別待遇で扱った種族では、omが男性の敬称に使われた。血族に
関係付けない用法が既に発生していたということのようだ。

かつて、成人男性への呼びかけ言葉(敬称としても使われる)として使われていたbah, 
koh, dauke, juragan, ndoro, mas beiなどを一掃して、のし上がって来たomが一世を
風靡したが、その後の展開はbossがomを駆逐しつつあるように見える。今では駐車番
さえもが運転手をボスと呼ぶ。


外国人はかつて一様にtuanが敬称および呼びかけ言葉として用いられていた。しかし
tuanとは元々「ご主人様」を意味して使われていたムラユ語であり、オランダ人が聖
書に記された神を意味するオランダ語heere(英語のlord)をムラユ語に翻訳する時、
神を人間臭の強いtuanから引き離すためにtuhanという語が創造されたという話になっ
ている。

わたしがインドネシアに住むようになった1970年代半ばごろですら、まだ二十代の
若僧が地元民老若男女からtuanと呼ばれていたのだ。しかし民族主義精神がいつまでも
そんな封建主義を放置するはずもない。

外人の呼称に関する特別扱いは徐々に変容して、一般インドネシア人と同様のbapakに
変化して行った。ただし種族的に見るなら、その変化の担い手は主にジャワ人であり、
国としての動向を敏感に嗅ぎ取る非ジャワ人もそれに追随するひとが多かったが、ミナ
ハサ人の中にはomを使うひとがいたこともわたしの体験の中にある。

バリ島で引っ越し先を探しているころ、三十代のバリ人青年ふたりに手伝ってもらっ
た。かれらはわたしたち夫婦をom, tanteと呼んだ。確かに年齢的にもふさわしい呼称
であり、またbapak, ibuという呼称が持つよそよそしさのない、親しみを感じさせるも
のであるため、それはそれで納得して受け入れていた。

新居を建て始めたころから、その村の雑貨ワルンをしばしば訪れるようになり、ふたり
の青年がそこでわたしをomと呼んでいたことから、ワルンの女性店主もわたしをomと
呼ぶようになった。青年たちの母親のような年恰好の店主がわたしをomと呼ぶのにく
すぐったい思いをしながらも、その関係は今でも続いている。[ 完 ]