「VIJはサッカーの草分け」(2019年04月12日)

ロキシー(Roxy)〜チデン(Cideng)地区にVIJスタジアム(Stadion VIJ)と呼ばれるサッ
カー場がある。スタジアムと呼ばれるには裏腹な外観だ。8,294.4平米の土地の四
周が塀で囲まれ、ところどころにネットが張られ、一辺にだけ小さな観客席が設けられて
いる。

サッカーグランドは105.2m X 40mの広さで、現在の国内標準サイズである90
〜120m X 45〜90mに則していない。現在ここの住所は中央ジャカルタ市ガンビ
ル郡チデン町になっている。

このスタジアムにアクセスする道路は幅4mの田舎道で、スタジアム自身も周辺に建って
いるルコや商業建物の陰に隠れて、なかなか外からは見えにくい。それでもこのスタジア
ムは、バタヴィアのプリブミサッカー愛好家たちにとってのメッカになっていた。建設さ
れたのは1928年だ。

1920年代のバタヴィアで、サッカーを愛好するプリブミたちがチームを作って対戦し
ていた。Ps Tjahja Kwitang, Ps Kalipasir, Ps Sinar Bulan, Ps Setiaki, Ps Sterなど
がそれだが、なかば趣味の域を出ず、リーグを組んではいなかった。

一方オランダ人はチームを作り、リーグを組んで対戦を行う組織的な動きを行っていた。
都内のあちこちに古くからあるサッカー競技場のほとんどは、オランダ人がホームグラン
ドとして設けたものだった。オランダ人のサッカー組織はVoetbalbond Batavia en 
Omstreken 略してVBOと呼ばれた。

1927年にパサルバルのガンブンドゥル(Gang Bendur)で火事があり、多数のプリブミ
が焼け出された。同じプリブミの困窮を前にして、スティアキとステルの両チーム有志が、
有料親善試合を行って収益を罹災者に寄付しようと考え、興行試合の場所を探した。

かれらはオランダ人チーム「ヘルクレス」の持っているデカパーク(Deca Park)のグラン
ドを貸してほしいと申し入れたが、待てど暮らせど返事が来ない。仕方なくVBO本部に
どれかのチームのホームグランドを貸してほしいと申し入れたところ、返事をもらえたの
はいいが、その内容は拒絶だった。なにしろ、オランダ人の使用する場所には必ずといっ
ていいほど「原住民と犬は立入禁止」の貼り紙が出ていた時代だ。

思い余ったかれらはバタヴィア市庁に支援を求めた。いくら植民地時代とはいえ行政の隅
々までオランダ人が直接手を下しているわけでなく、多数のプリブミがかれらを補佐して
いる。そしてこの話が現在ジャカルタの第一級儀典道路にその名を残しているMHタムリ
ンを動かしたとき、結果の形は決まった。当時タムリンは国民議会のプリブミ代議士だっ
た。

スタジアムが作られ、そこを本拠地にしてスティアキ、ステル、MOS、BSVCの四チ
ームが連盟を組んでVoetbalbond Indonesia Jacatra を名乗った。オランダ人行政官が忌
み嫌ったインドネシアという言葉を挿入したのは、青年会議の誓詞にちなんだものだ。こ
のVIJが後のPersija Jakarta の源流になった。

VIJはガンスコッ(Gang Scott 今のJl Budi Kemuliaan)角の広場やブランウィル広場
(Lapangan Brandweer 今のガジャマダプラザ西側広場)なども使ったが、そのうちに使
用が禁止された。タナアバン地区のトリヴェリラアン(Trivelli Laan)でもゲームを行っ
た。そこは現在Lapangan Kebun Singkongと呼ばれている。

独立後、オランダ人が専用に使っていたサッカースタジアムはまるごとインドネシア人の
手に渡った。ひとびとはより充実し、優れたスタジアムに移って行った。VIJスタジア
ムは取り残されてしまった。