「MRTがもたらす文明化(前)」(2019年05月02日)

歴史的に、建物の外にある公共スペースに姿を晒している人間は普通、貧民に限られてい
た。かれらは酷暑・風雨・砂塵・有害ガス・悪臭や人間の乞食行為・犯罪・暴力などを避
けるための安全快適な場所を持たず、また移動するにも私的な乗物を持たないために徒歩
を選択せざるを得ない結果、家の内外どこに居ようがたいした違いがなく、公共スペース
にうごめいている種々のリスクに始終直面しなければならない宿命を背負って生きていた。

公共スペースが歴史的にそのような状況の中に置かれてきたために、その場所は荒廃する
がままに放置されてきた傾向をわれわれはインドネシアに見出すのである。その結果、人
間が歩行するための安全を確保するべき歩道は存在しない場所の方が多く、自動車が走行
する部分にしても、運転の快適さが維持されている場所は少ないことのほうが多かった。
公共スペースのクオリティ向上に関する理解と姿勢が上昇しているきたのは、ほんの十数
年前くらいからだ。

自動車を持つ個人がお抱え運転手を使い、自分で運転しようとしない傾向はかつて顕著に
存在していた。運転者にとって快適な自動車走行のできる場所は限られており、おまけに
暴力的な公共スペースでの自動車運転マナーは他の運転者や路上にいる人間たちとの間で
の事故やトラブルを生みやすく、また道路標識の不明瞭さは小さくない交通違反のリスク
すら運転する人間に与えていたのである。

そのようなリスクをすべて雇い人である運転手に負わせることがお抱え運転手を持つ習慣
の重要な要因のひとつになっていた。それは上で述べた公共スペースの性格に対応するた
めの方策だったのであって、決して社会ステータスに関連してカッコつけるため、あるい
は尊大意識を味わうために行われていただけではない。


公共スペースにおけるそのような性格は、そこに居る人間の階層に関わる認識を世の中に
植え付けることになり、四輪二輪の自動車に乗ってそこを通行する人間がそうでない人間
を劣等視、あるいは下に見る社会観を育んできた。外国人旅行者であっても、自動車運転
者が見下している世間の有象無象の中に混じっていれば同類視されるのは火を見るよりも
明らかだ。外国人ツーリストがジャカルタの街中を徒歩で歩き回るのは、よほど場所を選
ばなければ危険なのである。[ 続く ]