「続・地名と民族主義」(2019年05月03日) 1999年2月10日付けコンパス紙への投書で一読者が、スマトラの綴りは英語で Sumatraと書かれるのだから、インドネシア語もSumateraでなくSumatraと綴るべきだ、 と提案した。実は、インドネシア共和国教育文化省国語開発育成庁も既に標準綴りを Su-ma-traと定めており、Sumateraは慣用綴りであって標準外だとしている。 ムラユ語は基本的に子音は常に母音を伴うのが通例で、子音が単独で出現するときは発 音されず、発音の必要がある時には表記されていない[?]の音が伴われるのが普通だ。 ちなみに音節末に出現する子音については、鼻音の/n/, /ng/は例外として他の子音は 発音されないのが決まりになっている。/h/は有気音のシンボルであり、他の子音は音 節末をその音の口の形にするエンディングスタイルなのだ。 たとえばrakyatはrak-yatと分節され、ra+kの口の形、そしてya+tの口の形という発音 が公式のものであり、ra-kyatという発音はオーセンティックなムラユ語から逸脱して いるし、sembahyangはsem-bah-yangと分節されてse+mの口の形、ba+hで息を洩らし、ya +開放鼻音のngというエンディングとなる発音だ。sem-ba-hyangという発音は正しいも のでない。 ところがインドネシア人自身それを知らず、ラキャッ、スンバヒャンと発音する者がい る。ネイティブを盲信するのは、リスクを背負うことになるかもしれないから、ネイテ ィブの言うことだから正しいと鵜呑みにせず、ともかく言語体験を貪欲に積み重ねるこ とが外国語マスターの王道だろう。 話を戻すと、つまりSumatraをムラユ語で発音すればSumateraと同じになり、現実には -teraを-traという綴りに変えたところで、相変わらず-teraの音が聞こえて来るという ことになるのである。 まさかそんなことを知らない教育文化省国語開発育成庁ではあるまいから、その意図を 推察することも不可能ではないにせよ、何となく奇妙な動きという印象も避けられない。 国語開発育成庁はputeraやputeriあるいはsamuderaについても同じようにしていて、 標準綴りはputra, putri, samudraとなっているが元々はputera, puteri, samuderaと 綴られ、そう発音されていたものなのだ。 国語行政トップが行っている-teraを-traに二重子音化している動きはさておき、コン パス紙に投書した一読者はインドネシア語の綴り方は英語に従うべきだというロジック を展開した。弱者民族主義にそんな面があるのだろうか? その一読者の投書が示しているのは、民族主義精神でなくて外国追従精神なのである。 Manusia Indonesia tidak PD. という言葉をインドネシア人はよく口にする。PDとは percaya diriの頭字語で、権威のあるものに従っていればまちがいないという精神を 指摘しているのがその文句だ。 Malu (aku) jadi orang Indonesia.という言葉も、昔はよく出現していた。これはオ ルバ期に現状政治批判を謳いあげた詩人の作品のタイトルで、知識人文学者が自民族を 恥ずかしいと思う心理のあり方は自分が所属している民族を他者より下に位置付けてし まう自虐的なものとなる。ヨーロッパ人のやることは間違いがないと思う精神傾向を非 ヨーロッパ民族主義から見るかぎりtidak PDなのである。 同じことはヨグヤカルタ/ジョグジャカルタ問題にも当てはまる。ジャワ語では Yogyakartaが正しく意味を持つ言葉であり、Jogjakartaという言葉はジャワ語の中で は意味をなさない。 元々オランダ人がJogjakartaとオランダ式綴りで書いてヨグヤカルタと発音していた ものを、イギリス人がイギリス式にジョグジャカルタと発音するようになった。 Jogjakartaという言葉のエティモロジーはそれだけの話である。 インドネシア共和国はだいぶ昔にオランダ式綴りをやめて1972年から改良綴り(E YD)を使うようになり、ヨグヤカルタという音を綴る際にはYogyakartaと書いている。 公式地名はYogyakartaであり、Jogjakartaは俗称でしかない。 ならばどうしてインドネシア人の中に、ましてやジャワ人ですらジョグジャと発音する 者がいるのか?そこに影を落としているのが外国追従精神なのである。外国人がそう発 音しているんだから、地場民族が同じようにしてもおかしくあるまい、というのは媚で あり阿諛追従でもある。 イギリス人の無知蒙昧、インドネシア人のティダペーデー、そんなものを後生大事に抱 え込む必要があるのだろうか?