「続々・地名と民族主義」(2019年05月06日)

地名だけでなく、固有名称全般についての、言語オブザーバーであるリー・チャルリー氏
の興味深い論説がある。その内容を少し抜き書きしてみよう。

名前というのはその本人のものであり、本人の主権下に置かれているものだから、綴りや
発音を他人がいじくるのは本人の基本的人権に対する冒涜であるという観念をリー氏は説
いている。

この観念はきわめて正当なものであり、基本的にはだいたいその線に沿ってひとの名前は
扱われているようだが、他人の名前を玩具にする不逞の輩がどの国にもいる。これは社会
生活に重要な知識と心構えであり、このようなことがらは義務教育の中で子供たちに教え
られるべきではないだろうか。

スカルノもスハルトもSoekarno, Soehartoと自分の名前を書いていたのだから、本人の名
前をわれわれが表記する際にはSoekarno, Soehartoと書くべきだが、公共施設などにかれ
らの名前が使われたときには、現在有効な正書法で書かれるべきだとリー氏は言う。

それに従うのならスカルノハッタ空港はBandara Sukarno-Hatta、スハルト丘はBukit 
Suhartoと書かれなければならないのだが、現実にはBandara Soekarno-Hatta, Bukit 
Soehartoと書くひとの方が多い。

その事実はやはり、特定個人の名前が使われているのだからその本人の名前表記で書くの
が自然であるという考えをより多くのひとが持っていることを示すものであるように思え
る。本人名の付けられた公共施設は本人に帰属するアイデンティティでないため、それは
単なる符牒とみなすという姿勢は論理の飛躍と考えるひとの方が多いのだろう。インター
ネットを調べても、結果はそのようになっている。


かれはインドネシア民族の一員として、インドネシアの地名を外国人が書くときは内名で
書いて欲しいとあけすけに希望を語る。そうなるように外交官はもっと努力せよ、と。そ
こに流れるロジックは、個人名に関わるものと通じているように見える。

ニューズウィークが臆面もなくBorneoやCelebesなどと書き、KalimantanやSulawesiと
いう地場の本当の名称を書かないのはきわめて遺憾で残念なことだとかれは言う。それが
強者民族主義者の本音だろう。世界はIndian Oceanを使ってSamudra Indonesiaと書こう
としないと語るのはもろにそれだ。だがAndalasやNew Guineaという言葉が使われない
だけましかもしれない、とかれは気を取り直す。

英語で文章を書くとき、Celebesという地名はSulawesiの英語名なのだから、あの島を表
現する際にはCelebesと書くのが妥当な扱いとなる。ところがインドネシア語で文章を書
くなら、Sulawesiという単語を使わなければおかしいのである。それはその言語が持って
いるボキャブラリーの中に、その外名(あるいは内名)が定着しているのがその理由であ
り、現実認識や政治的な感覚、ましてや侮蔑や尊大意識などとは見当違いのメカニズムに
なっている。

Sulawesiを英語ボキャブラリーの中に定着させて英語文の中でそれが使われるのが自然な
あり方にしたければ、方法がないわけでは決してないのだが、時間と金がかかるのは言わ
ずもがなだろう。政府外交がそんなものを取り上げるはずもあるまいから、これは国際文
化交流の仕事になる。

ともあれ現状がそうなっているのだから、「郵便配達員が犬を噛んだ」という文を英語で
書く場合はdogが使われ、インドネシア語で書くときにはanjingが使われるのと同じ理屈
がそこに適用されるのである。その単語が固有名称となったときに、内名と外名(つまり
言語の枠組みとそれを支えている文化の違い)という観念を飛び越えて、一気に「本人名
称はただひとつ」という世界にのめり込んでしまうところに強者・弱者の民族主義精神が
からまり、この種の問題が発生しているように思われる。

感情と感覚をますます重視するようになるポスト真理時代の人間は、そんなところにまで
紛糾と争いの種を広げて行くのだろうか?残念ながら、人類の明日に爽やかな青空はあま
り期待できないかもしれない。