「チナ蔑称論」(2019年05月07日)

ある民族がわが民族を指して使っている固有名称が蔑称であるので「使うな!」という事
件は多々起こっているのだが、そんな文化上の主権と自治への干渉に対して奇妙な精神構
造を示した民族もある。

唯々諾々と強者民族主義の言うがままに身を委ねることは自民族の文化を損壊させること
につながるのであって、そのような対応の仕方に文化の主権と自治という姿勢を見出すこ
とはできない。古人が打ち立てた文化遺産を誇りにはしても、自らが自己の文化を将来に
渡って最善の形態に維持し、育成しようとしない民族は、ジリ貧になるのが関の山だろう。

インドネシア民族にもチナCinaは蔑称だから変えて欲しいという要求が投げつけられた。
インドネシア語におけるチナの名称はサンスクリット語に由来しているように思われる。
ポルトガル語もオランダ語もChinaの発音はシナなのだから。

チナ蔑称問題については、インドネシア共和国独立前から中国Tiongkok、中華Tionghoa
の使用を推進する一派が現れて普及を図っていたところ、1967年にTiongkok/Tiong-
hoaの使用を国民に禁止する政策が執られたためにチナという語だけが社会一般の用語と
なり、同時に政府の華人抑圧方針を受けて独特なニュアンスを帯びて使われるようになっ
たという背景がある。

チナ廃語要求に対して政府は2014年3月に大統領決定書を出し、Tiongkok/Tionghoa
の語を復権させた上にそれを行政機構にとっての公式名称の位置に据えた。大統領決定書
というのは法律でなくて行政通達だから、国民社会への指示という性格は皆無だ。

大統領の座に就いた人間が大統領という職務に与えられている権限で命令を下せるのは自
分が統率している行政機構に対してのみだ、というのが三権分立原理を踏まえた民主主義
国家であることを忘れてはならない。民主主義国民が服従するべきは国家指導者の命令で
なく、行政・立法・司法の三権が合意して国民をしばるために作り出して来るものだけで
ある。そしてインドネシアは、イスラム法の国でなく、世界にありきたりの世俗型民主主
義国家なのである。


で、国民はどう反応したか?社会オピニオン先導者を務めるマスメディアは、ひとつの傾
向を打ち出してきた。もちろん親中国メディアやシンパはTiongkok/Tionghoaを何の心配
もなく使えるようになったわけだが、文学者の中にはムラユ語源である古来からのチナを
使い続けているひともある。そんな中で、政府が執った決断姿勢とメディア界への指導は
尊重しなければならず、チナCinaを使い続けるのは心苦しい。そういうプロセスを経て大
手メディアはたいていがCinaの綴りをChinaに変えたのである。

Chinaという綴りは英語でこそチャイナと発音されるものの、多くのヨーロッパ人はシナ
と発音するのが一般的であり、その一方でスペイン人もルーマニア人もそれをチナと読む
のである。

多くのインドネシア人はメディア記事を英語発音で読んでいるが、日常生活では相変わら
ずのチナが同じひとの口から飛び出して来るありさまだ。インドネシア民族が示したこの
反応に、言い出し民族はきっと肩透かしを食わされた印象を持ったのではないかとわたし
個人は憶測している。このしたたかな民族に比べて、同じような目にあったとある別の民
族のなんと従順なことか・・・!