「チナ蔑視の元凶は満州人?(3)」(2019年05月10日) そういった古い時代にも、華人を笑いものにすることは当然行われており、たとえばあま りにも騒々しい状況を描写するのにbagai Cina karamとか、痩せてガリガリの女性をbagai Cina beranak selusinなどと嘲るような言葉が使われていたが、チナという言葉自体が蔑 称として使われているのだとは言い切れないはずだ。中国人の集団は普通の状態ですら騒 々しいということを知っている人間なら、この連中が乗った船が遭難でもしようものなら どれほど騒々しくなるか、ということを想像するだけで誰しもその意味が十二分に理解で きるだろう。人間の感受性は個人差が大きいから、ひがみ根性の華人には蔑称と感じられ る可能性が大きいことを認めるとしても、である。 インドネシアの地で華人の威厳を貶しつくしたのはオランダ植民地主義者だった。19世 紀に植民地政庁は1850年7月28日の官報Staatsblad第44号で在留華人の国籍規則 を定め、民法Burgerlijk Wetboekに盛り込んだ。更に1854年にオランダ植民地統治法 Regeringsreglementが制定されて、第109条で華人はプリブミよりも下位の制限された 社会生活を余儀なくされた。 それは民族間に起こった征服の結果としての異民族支配がもたらした副産物だ。オランダ 人の行った異民族支配が生んだ人種差別が、インドネシア人が華人を下に見る習慣を培養 していったと言えないだろうか。 1965年のG30S−PKI事件で、インドネシア共和国の国体転覆を図った共産主義 者はだれであり、裏でだれが糸を引いたのかというストーリーが、新生オルバ政権によっ て語られ、それに沿った対策が講じられて行った。その立役者がチナであり、資金供給源 はBaperkiをはじめとするチナ結社とされて、民族国家に刃向かうそれらの敵対要素は徹 底的に叩き潰された。中国との国交断絶とジャカルタコタにあった中国大使館への暴徒襲 撃はその頂点をなした。 政治的意味合いにおけるインドネシア語「チナ」が蔑称と化したのはその時代だ。だがそ れらの政治事件の奥底にもっと別の要素が存在していたことをレミ・シラド氏は指摘する のである。 1644年の順治帝以来1912年まで、清王朝を建てた満州人は漢人あるいは唐人と呼 ばれる民族を抑圧した。チナという言葉を蔑称にしたのは満州人だったのだとかれは書い ている。だがそれに関する論証については一言も触れられていない。 インドネシアに渡来した華僑の中に、満州人が混じっていた話は聞かない。だから満州人 がインドネシア語のチナという言葉をいじくる機会などなかったにちがいないのである。 レミ・シラド氏はいったい何を言っているのだろうか? 近代中国の歴史が異民族による地場民族の征服と支配の真っただ中にあったことは、少数 の満州人が莫大広大な中国を支配するために征服者自身が中華化に努めたことの陰に隠さ れて、あまり強い印象を一般に与えていないように見える。だからと言って、被征服民族 がそれをよしとして受け入れ、被支配者の立場にほぼ三世紀に渡って甘んじ続け、異民族 政権を支えたという見方はあまりにもポジティブに過ぎるのではあるまいか。被支配民族 には奴隷心理が疫病のように蔓延するのが世の常だったようにわたしには思われるのだが。 [ 続く ]