「クントガンに想う(1)」(2019年06月10日)

外国語のカタカナ表記は原音に近い音になるように書き表すのが基本であるとわたしは考
えている。言語専門家や国語行政においても、その考え方が原則に置かれているようにわ
たしは理解しているのだが、間違っているだろうか?

現実にアメリカのHoustonは常にヒューストンと書かれているし、フランスのMarseilles
はマルセイユと原音に似せて書かれる。ローマ字式読み方でホウストンやマルセイレスと
それらを表記する者はいない。

たとえば日本の開国時代に、日本語を欧米人に学びやすくするために独自のアルファベッ
ト表記を案出したヘボン博士の名前と、永遠の美女オードリー・ヘップバーンの姓がまっ
たく同一のHepburnであるという現象に首を傾げないひとはいるだろうか?ヘッバーンと
書けばまだ原音表記の場にありがちな揺らぎと解釈できるのだが、「プ」を付けたことで
ローマ字コンセプトのアイノコになってしまった。日本人はなにゆえに外国語表記の原音
オリエンテーションを捨てて、ローマ字コンセプトに傾くのだろうか?

たまたまアルファベット表記が使われているマイナー言語であっても同じ原則が適用され
てしかるべきであるとわたしは考えるのだが、実際にはそのアルファベットがローマ字読
みされて、原音と似ても似つかないカタカナ表記がまかり通っている状況を日本人のイン
ドネシア語表記に見出すことができる。


実体は有気音を意味しているだけで音になっていない音節末の/h/にわざわざハ行の文字
を当てて音節を増やしているひと、音節頭や末尾の/ng/を/n/と/g/に分解して音節を増や
しているひとなど、奇妙な行為を行っている日本人は枚挙にいとまがなく、おまけにそれ
らのひとびとが自説をネット上に堂々と書きこむために、たくさんの日本人インドネシア
語学習者を混乱させていることは弊害の最たるものだろう。

そういう音が正しいものと思い込んでインドネシア人と会話すると、相互の意思疎通に障
害がもたらされないともかぎらない。ペカロンガンpekaronggangなどという名前の場所
がジャワ島のいったいどこにあるのか、ングラライngguraraiという名の空港がバリ島に
あっただろうか、とインドネシア人のほうがどぎまぎしてしまいそうだ。

こういう話をすると、どうせカタカナで外国語の音を完璧に表現できないのだから、どう
書かれようがかまわないのだというような言い方をする御仁が現れる。いかに原音に近い
音を書き表そうとしているかという話に対して、「どうせ完璧なことはできないんだから
やっても無駄だ。all or nothingでいいのさ。」と語る人間の姿勢は、all(100)と
nothing(ゼロ)の間の99個の目盛りの間を右往左往している人間が持つ誠実さに対す
る冒涜としか思えない。[ 続く ]