「ジャワにも死の鉄路(1)」(2019年07月03日)

スマトラ島死の鉄路とよく似た話がジャワ島にもある。
ジャワ島では、オランダがその炭鉱開発に取り掛かる前に日本軍の進攻が行われたために、
日本軍は炭鉱を稼働させることに併せて、石炭を運び出すための鉄道敷設も同時に行った。

1943年2月にそのプロジェクトが開始され、1944年4月1日に竣工してからは、
毎日3百トンの石炭が南バンテンのバヤBayahからサクティSaketiへ運ばれ、また炭鉱や
鉄道関連の勤め人8百人も客車に乗って通勤したような話になっている。インドネシアで
労務者悲話が語られるとき、必ず登場するストーリーのひとつが、このバヤ炭鉱だ。


現在バンテン州ルバッ県バヤ郡サワルナ村となっているプラウマヌッPulau Manukのマン
ドゥルMandur山で石炭が産出することをオランダ植民地政庁は知っていた。そこでは地
元民が少量の石炭を掘り出しては、適宜自家消費あるいは近隣の地場産業向けに販売して
いたのである。

その地域はインド洋の波が洗うジャワ島南海岸部にあり、プラブハンラトゥから西へ40
キロほどの位置になる。交通の盛んなバンテン北部からは極めて遠く不便な遠隔地だ。

植民地政庁は1936年に株式会社NV Mynbauw Maatchappij Zuid Bantenを設立して現
場の実地探査を開始した。しかし何らの具体的な生産活動が開始される前に1942年の
日本軍ジャワ島占領が行われて、バヤのマンドゥル山炭鉱は日本軍の手に委ねられたので
ある。蘭領東インドの資源獲得を南方進出戦略の骨子のひとつにしていた日本軍がそれを
捨て置くわけがない。


バンテン地方の鉄道網は、1896年に国鉄Staatsspoorwegenがバタヴィアからランカス
ビトゥンRangkasbitung〜チレゴンCilegonを経由してアニエルキドゥルAnjer Kidulに達す
る本線と、その途中のドゥリDuriからタングランTangerangに至る支線、総延長175キ
ロをまず建設した。

その後、ランカスビトゥンからパンデグランPandeglang〜サクティSaketi〜メネスMenes
を経由してラブアンLabuanまでの56キロの支線が作られ、更にチレゴンからはムラッ
Merakへの支線も作られた。

その鉄道網を手に入れた日本軍は、サクティ〜バヤ間を結ぶ89キロの鉄路建設を開始し
たのである。まずオランダが1906年に建てたサクティ駅舎を建てなおして、そこから
支線を延ばす準備を整えた。支線のための鉄道資材は中部ジャワの砂糖工場で使われてい
た軽便鉄道線路などがメインを占めた。1944年4月1日に行われた開通式で貨車を引
いた機関車はBB10.6だったそうだ。[ 続く ]