「ジャワにも死の鉄路(2)」(2019年07月04日) 鉄橋が20個所に設けられた。鉄橋の両端には頑丈な礎石が使われて列車の運行の安全性 が確保されていた。プカンバル死の鉄路に作られた鉄橋とは大違いのものであり、その両 方の実地調査を行った現在のインドネシア国鉄技術者は、スマトラの死の鉄路は実にいい 加減な作り方がなされていた、とコメントしている。スマトラでは実際に鉄橋が崩れ落ち た事例の証言が得られている。 また、サクティ駅とバヤ駅の間に駅が9カ所作られた。線路は全線が単線で、駅だけが複 線にされ、すれ違う列車の交換場所に使われた。バヤ駅からは更に石炭産出場所のマンド ゥル山まで線路が延長された。 日本軍はその鉄路建設工事に現地人労務者を動員し、工事エンジニアーにオランダ人抑留 者を起用した。労務者の大半は中部ジャワのプルウォレジョ、クトアルジョ、ソロ、プル ウォダディ、スマラン、ヨグヤカルタなどでかき集められた14〜30歳くらいの男たち だった。 1942年に26歳だった労務者の生き残り、マディさんは2011年にこう物語った。 わたしは西ジャワ州スカブミ県チランコップ村の故郷にいたとき、バヤ炭鉱で働かないか という誘いを受けました。やってきたら、鉄道線路工事のほうへ送られました。チハラ労 務者キャンプで線路工事のためのいろんな仕事をさせられました。仲間が線路の両脇で、 死んでいくんですよ。死んだら、線路からあまり離れていない場所に遺体を埋めていまし た。きつい肉体労働をさせられて、しかし食べ物はろくに与えられませんでした。腹をす かして死んでいった仲間も少なくなかったです。 体力を消耗する仕事をさせられているのに、食事はほんのわずかなコメの飯と指先くらい の魚が一切れ。あれでは生き残れるのが不思議なくらいでした。 鉄路が完成すると、石炭掘り出しに力が入る。採鉱はインドネシア人が井戸と呼んだ縦穴 方式で、狭い穴を8メートルほど掘り下げていく。そんな穴が至る所にあけられている。 1943年ごろまだ子供だった地元の老人は昔を回顧する。炭鉱は日本人の怒鳴り声と労 務者のうめき声、行き交うロリーの音がひとつになって、喧騒の渦巻く場所だった。父親 が日本人から病気や怪我をした労務者に関する報告仕事を与えられ、子供だったかれも父 親の仕事に付いて回った。かれは採掘場でやせこけた死体を何度も目にしている。 つまりかれの父親も炭鉱に働きに来た労務者のひとりであり、かれは地元に居ついた労務 者の子孫だったということになる。[ 続く ]