「ジャワにも死の鉄路(3)」(2019年07月05日) 当時16歳で中部ジャワ州プルウォレジョ県ジャティレジョ村からやってきたムントカリ オさんも2011年に回顧談を語った。かれもバヤ炭鉱で働く意志を持ってやってきた労 務者のひとりだ。日本軍政初期の頃は、支配者の日本軍もそして現地人も、相互に余裕が あった時期だったのだろう。 労務者に対しては元々、賃金一日40センが支払われ、現物給付として食事が提供される という決まりになっていた。だが食糧生産の低下とコメの軍需物資化が国民生活全体に食 糧不足を引き起こしたことで、現物給付に大きなしわ寄せがもたらされた。 歳月の経過とともに、労務者の仕事が命がけである実態が知れ渡るようになり、日本軍の 側にも戦況の変化による心理的な余裕のなさが労働力徴用に強制的な色彩を深めるように なって、労務者という言葉が強制労働システムという語義をインドネシア人に持たせる結 末になったにちがいない。ムントカリオさんは語る。 わたしはプルウォレジョから汽車でバタヴィアに運ばれ、さらにランカスビトゥンまで送 られました。そこからは大勢の労務者と一緒にトラックでバヤに運ばれました。バヤでは ほんの少しでしたが、コメの飯が食べられたので、故郷にいるより労務者になってよかっ たと思ったこともあります。 わたしの仕事は採鉱穴の壁を支える木材を集めて来るひとたちの世話と監督でした。ヨグ ヤから来た仕事仲間たちの中に、死んだひとが何人もいます。かれらは腹痛を起し、あげ くに死んでいきました。 ムントカリオさんが来たころ、かれは一日当たり米を250グラム与えられ、水草のグン ジュルや野菜のウラップとテンペがおかずに付いた。しかし労務者の全員がそうではなか ったことにかれは気付いている。その理由を知ることはできなかったし、そんなことをし ても何の意味ももたらさないのがかれには分かっていた。 プルウォレジョ出身のアマッさんはムントカリオさんより後からバヤにやってきた。かれ はまるで強制連行されるような形で連れて来られたのだ。アマッさんが言うには、故郷で ある日、家からあまり遠くない場所で遊んでいたら、日本軍兵士が突然現れてついて来る よう強要し、そのまま大勢のひとたちとバヤまで運ばれたそうだ。 かれが来たころは、労務者に与えるコメの飯などもはや画餅と同じで、朝は薄い粥、夕食 は何もなし、というような時期になっていた。終日費やされる厳しい肉体労働の対価とな るべき栄養補給はないも同然だった。かれは腹を空かして死んでいった仲間を36人、土 に埋めた。 空腹のためにキャッサバやガドゥン(芋類)を食べ、腹を壊して死んだ者も少なくない。 労務者は地元民が海から取って来る藻類を買って食べた。そのころから藻類がこの地方で の一般的な食料のひとつになり、その習慣はいまだに続いているという話だ。[ 続く ]