「ジャワにも死の鉄路(終)」(2019年07月8日)

1943年から45年までの間に、労務者への待遇は大幅な変化を起こしたのではあるま
いか。生き残り労務者の中には、与えられた飯の中にはモミや小石がいっぱい混じってい
たという話や、250〜400グラムの米が与えられるという話と大違いで、量ははるか
に少なく、時にはゼロになったこともある、という話が溢れている。おかずは味のないス
ープに若いパパヤの実が入っていたり、水草と塩魚一切れというようなものが普通だった
ようだ。


炭鉱労務者は2万人が徴用されたという説が有力だ。しかし鉄道や付属施設建設に駆り出
された労務者がどのくらいいたのかについては、諸説芬々としてはっきりしない。まして
や炭鉱での死者数、鉄道工事での死者数は、なにひとつはっきりした記録が作られていな
い。炭鉱と鉄道の両方で総勢9万3千人の労務者が没したという説もあるのだが、そうな
ると十数万人という労務者がそこに動員されたことが推測され、鉄道工事には8万人超と
いう算数になるわけだ。しかし、プカンバル死の鉄路220キロに投入されたインドネシ
ア人と西洋人の合計が11万人程度だったというものに対比させると、距離的に半分にも
満たない89キロに投入された人数がどうもしっくりしない。

インドネシア語ウィキには4百万から1千万のインドネシア人が日本軍の労務者にされた
という表現が見られ、またジャワ人労務者の30万人超が島外あるいは外国に送られたと
いう別の記事も見られる。そうなるとジャワ島内に労務者があふれかえることになりそう
だが、それほど多くのプロジェクトがジャワ島内で実施され続けたのだろうか?ひょっと
すると、1千万人などというのは人数に日数を掛けた延べの数字なのだろうか?

それはともあれ、アマッさんのように、家族のだれも知らないうちに連れて行かれ、挙句
の果てに線路脇や炭鉱近くに遺体を埋められたひとびとについては、数え出す術が何もな
い。


バヤ〜マリンピン街道沿いにあるバヤ第一国立中学校の近くに、高さ3メートルの記念碑
が建てられている。この塔を多くのひとは「労務者の塔」と呼んでいるようだが、正確に
は「タン・マラカ労務者の塔」Tugu Romusha Tan Malakaとなっているようだ。そこは
旧バユ駅があった場所なのである。

1946年に建てられたこの記念碑は、官憲の追跡を逃れて地下に潜った左翼系インドネ
シア独立運動家タン・マラカが偽名を使ってバヤ炭鉱に潜入し、そこで現地人側の炭鉱運
営職者となって2千人の労務者のケアを行ったことを記念するものであり、プカンバルの
「鉄道記念碑労働英雄墓地」とは意味合いが異なっている。

そうではあっても、バヤ炭鉱について物語るインドネシア人のほとんどすべてがバヤを日
本軍が行った非人道的な労務者システムの実例とし、それに非難の舌鋒と怨嗟の声を向け
ているこの民族感情を、バヤのタン・マラカ労務者の塔が打ち消しているわけではあるま
い。

インドネシア政府は最終的にバヤ炭鉱を、1953年に閉鎖した。ここでも、たくさんの
インドネシア人労務者の生命を奪って建設された死の鉄路を列車が走ることはなくなり、
線路は取り外されて屑鉄として売却され、今やその姿はほとんど消滅している。[ 完 ]