「津波とアチェの歴史(2)」(2019年07月09日)

14世紀初期に出版されたオドリコ・ポルデノーネの旅行記には、LamoriとSamuderaは
絶えざる戦争状態に陥っていると記されている。サムドラとはパサイPasai王国のことだ。

ナガラクルタガマには、Lamuriはマジャパヒッを宗主国にしているという記載がある。
ナガラクルタガマはマジャパヒッ王国宮廷作家プラパンチャが1365年に書いたもの
だ。

1552年から世に登場したジョアン・デ・バロス著のアジア史に、LambrijはダヤDaya
とアチンAchinの間にあると書かれている。アチンはアチェダルッサラムのことであり、
ダヤとはアチェジャヤ県ダヤ川上流にあったLhan Naという土地にイスラム化した周辺諸
王国から移住者が集まった結果、Lamnoという王国ができたのを指している。ラムノはバ
ンダルアチェダルッサラムからまっすぐ南方に50キロほど離れた場所だ。


ラムノは青い瞳を持つポルトガル人との混血者がいて、金髪に白い肌で青い瞳のインドネ
シア人ムスリムというエキゾチシズムが折々評判になっては、また消えていく。かれらを
目にしたければ、祭礼の時期においで、と地元民は語っているらしい。祭礼の時期には住
民がみんな仕事を休んで街中に出て来るので、目にすることのできる機会が多いというこ
とのようだ。

ラムノに子孫を残したポルトガル人の由来はいくつかの説がある。そのひとつはこんな話
だ。アチェスルタン国がラムノの隣にあるクルアンKeluang王国への征服戦を行ったとき、
クルアン王国はポルトガル人に応援を求めた。しかしアチェ側の戦勝でポルトガル人部隊
の生き残りは捕虜となり、ラムノに抑留された。ラムノのひとびとは捕虜にイスラムへの
入信を奨め、入信した者には地元女性を娶せて仲間として扱った。その子孫が青い瞳のム
スリムなのだそうだ。

別の説によれば、ある時ポルトガルの軍船が難破してダヤ海岸に漂着した。ダヤの王はか
れらを捕らえて命じた。イスラムに入信するなら仲間にするが、入信しないのなら海に戻
す、と。入信したポルトガル人は地元女性と家庭を築いて青い瞳の源になった。

また別の説では、ポルトガル人がスパイスを求めて上陸し、地元女性と家庭を築いたとい
うものもある。


ポルトガルが征服したばかりのマラッカに1512年から1515年まで駐在したトメ・
ピレスの著作「東方諸国記」の中には、Lambryはその地域一帯の最強国であるアチンに
支配されているという記述が見られる。

ラムレ村はバンダルアチェダルッサラムから海岸沿いに東へおよそ35キロ離れた場所で、
海岸まで伸びた台地の上に王都が設けられ、台地の両側には浜辺が連なり、西の浜に港が
作られていた。ラムレ村からバンダルアチェダルッサラムへは、もっと西方にある海に突
き出た大きな岬を迂回しなければならない。[ 続く ]