「ジャカルタの歴史」(2019年07月19日)

西暦紀元5世紀ごろ、スンダクラパはジャワ海沿岸の各地から商船が訪れる港町になって
いた。パジャジャラン王国の王都にもっとも近い港としてスンダクラパが発展のピークを
迎えたのは14世紀だ。

イスラム港湾都市となったドゥマッとチルボンの連合軍がヒンドゥ王国パジャジャランの
最大の商港バンテンを征服し、将軍ファタヒラが更に1527年6月22日にスンダクラ
パを支配下に置いたとき、ジャヤカルタという名称が与えられた。それがジャカルタの語
源だと言われている。

オランダ東インド会社の時の総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタをアジ
ア経営の中心地にすることを決意したとき、この地はふたたび激動に見舞われた。既にV
OCが確保しているマルクでなく、この地に本拠を置いてアジアの交易を支配しようとい
うクーンの構想は、進取の気性にあふれた人物ならではのものだったに違いない。

ジャヤカルタを灰燼にしてオランダ人の街作りが始まった1621年3月4日、Stad 
Bataviaが設立された。現在「バタヴィア旧市街Kota Tua Jakarta」と呼ばれている城壁
内の街区がその出発点だったが、追々と外に向かって行政区域は拡張され、バタヴィアと
メステル・コルネリスという二つの市制Gemeenteが1936年1月11日に合体されて
バタヴィア市となったあと、日本軍がやってきた。

日本軍政はオランダ人が行っていたインドネシアの住民統制システムを継承したが、バタ
ヴィアをジャカルタ特別市という名称に変えた。インドネシア共和国独立宣言のあと、1
945年9月19日に共和国政府は日本語のDjakarta Tokubetsu Shiをインドネシア語
のKota Djakarta Rajaに変え、スウィルヨSoewirjoを市長に任じた。かれがインドネシ
ア共和国の首都における最初の最高責任者になったのである。

AFNEI(蘭領東インド連合国軍)のジャカルタ進駐でジャカルタの行政権が奪われる
と、共和国はヨグヤカルタに首都を移した。するとオランダ東インド植民地文民政府はヨ
グヤに進攻して共和国トップを逮捕した。共和国は西スマトラに首都を移して暫定政権を
発足させ、共和国の消滅を避ける。


オランダから共和国独立の完全承認を得た後、首都はヨグヤに戻されてから1950年に
公式のジャカルタ復帰が行われた。そのときの行政区画としては西ジャワ州内の自治市に
なっていた。

首都ジャカルタが州と同格の特別区になったのは1961年のことで、Daerah Chusus 
Ibukota Djakarta Rajaを正式名称とし、スマルノ・ソスロアッモジョが初代知事に就
任した。

1966年6月10日、時のアリ・サディキン知事が特別区の中を5市に分割した。政
治センター地区を中央ジャカルタ市、タンジュンプリオッTanjung Priok港・スリブ群
島Pulau Seribu・パサルイカンPasar Ikan・プルイッPluit地区が北ジャカルタ市、チ
ュンカレンCengkareng・クルクッKrukut・グロドッGlodok・クブンジュルッKebun 
Jeruk地区が西ジャカルタ市、トゥブッTebet・マンパンプラパタンMampang Prapatan
・クバヨランKebayoran・パサルミングPasar Mingguは南ジャカルタ市、サレンバ
Salemba・プロガドンPulau Gadung・マトラマンMatraman・パサルボPasar Reboが東
ジャカルタ市という区分がなされた。
中央政府は1978年政令第25号で首都を5市に区分するこの措置を追認している。

更に1999年には北ジャカルタ市に属していたスリブ群島を中央政府が県に昇格させ
ることを認めて、スリブ群島行政県Kabupaten Administratif Kepulauan Seribuの発足
を命ずる法律第34号を制定した。

現在ジャカルタ首都特別区Daerah Khusus Ibukota Jakartaは5市1県を擁するインドネ
シア最大の街である。ジャヤカルタ発足からほどなく5百年を経過するこの街は、首都
移転が行われてもその歩みを続けて行くにちがいない。