「共産主義とファシズム(前)」(2019年08月13日)

ライター: コラムニスト、ブレ・ルダナ
ソース: 2019年7月21日付けコンパス紙 "Baris-berbaris"

わたしは整列行進がいつも嫌いだった。父はわたしを無理やり青年コミュニストリーグの
メンバーにした。毎年5月のメーデーで整列行進に駆り出されたわたしは、自分の歩調が
全体の足並みに合わせられないことを覚った。わたしの後ろを行進しているメンバーがわ
たしを罵り、わたしの足を蹴った。

闘争歌を合唱する段になると、わたしは歌詞を一言も理解できなかったから、歌うふりを
して口を開閉しているだけだった。わたしのことを密かに告げ口した者がいた。わたしは
子供時代から整列行進を憎んだ。


ミラン・クンデラの小説「The Unbearable Lightness of Being(存在の耐えられない軽
さ)」の主人公のひとりで、美しい女流画家であるサビナが語ったセリフが上のようなも
のだ。同名の映画ではその役をスエーデン美人女優のレナ・オリンが演じている。その整
列行進シーンは今もわたしの記憶の中に焼き付いている。その整列行進シーンを取り上げ
ることでクンデラは、ファシズムとコミュニズムの精神を余すところなく描き出すのに成
功したとわたしは見ている。かつての欧州でファシズムはナンバーワンの妖怪であり、コ
ミュニズムはナンバーツーの妖怪だった。

国際ジオポリテイックの変化が、欧州にとっての妖怪のカテゴリーを変化させた。他の大
陸でもみな同じだ。テロリズムが新たにリストアップされている。

わたしがいつも不思議に思うのは、インドネシアでどうしてファシズムが脅威と見られて
いないのか、ということだ。反対に、制服好き、ドグマ指向、武断的、などといったファ
シスト好みの諸傾向を愛好する者がインドネシアにはたいへん多い。

教育文化省が志向しているものを見るがよい。新入生オリエンテーション期間は整列行進
で埋められる。その世話役は軍関係者だ。絶対服従の基盤の上に規律を確立しようとして
いる。軍人紀律は妥当な生活紀律ではない。

インドネシアの学校は昔から、子供たちに軍人優位の観念を植え付ける大手門にされてき
た。歴史の勉強の中で、国家独立は軍事闘争によって達成されたと教えられてきた。外交
による闘争の歴史は二の次にされたのである。他国からの諸グループの参加(たいてい左
傾グループ)は言うまでもない。その事実について確かめたければ、歴史研究者に尋ねて
みれば良い。[ 続く ]