「インドネシア語学習者への忠告」(2019年08月23日)

言葉は時代と共に移り変わっていくものだ。とはいえ、インドネシア語の場合は他の国の
言語と違って、もっと複雑な要因が絡み合っている。たとえば昔はオランダ語臭の強い語
形が普通に使われていたのに、時代が下ってくるとその匂いがどんどん中和されていった
というような要素は、あまり他の国の言語に見られない特徴のひとつだろう。mentolerir
がmenoleransiに、memproklamirkanがmemproklamasikanに、というようなもので、この現
象に関するわたしの考えはこうだ。

最初、それらオランダ語源の単語をインドネシア語体系の中で使うとき、接辞me-kanをつ
けて動詞として使う際の語根にオランダ語の動詞形があてはめられたということではある
まいか。オランダ語ができる者にとっては、ごく自然な態度だったように感じられる。

だが別の接辞を付けて異なる品詞にするとき、同じ語根が使えない。インドネシア語体系
の中にある特徴としては、ひとつの単語を異なる接辞を使って品詞を変化させる場合の語
根は常に同じ形を取る。インドネシア語の単語は活用や変化を原則として持たないのであ
る。

同一の単語にme-kanを付けるときとpe-anを付けるときで語根の形が異なっては正当なイ
ンドネシア語にならない、という考えが出てきて当然だろう。オランダ語のできる人間が
急激に減少し、世代替わりが起こってそこの原理が批判され、昔の語形が非標準であると
裁断されて、単語の変遷が起こったというのがその背景ではあるまいか。


短編作家ソリ・シレガル氏は幼いころ、自動車の運転手はsupirと表記されていたと追憶
する。だがインドネシア語大辞典KBBI最新版にはsopirという綴りで掲載されており、
sopirが標準インドネシア語の形式でsupirは標準でないものという格付けがなされている。

他にもたとえばsimbiose mutualistisという句が今ではsimbiosis mutualismeに変わって
しまった。動詞+kan diriという表現も、今ではdiriが取り払われたものに変化している。
「Ia memaksakan diri untuk datang.」は「Ia memaksakan untuk datang.」という形式
に変えられているのが普通だ、とソリ・シレガル氏はいくつかの変化を指摘する。

どうやら、年齢的にまだ若い国語であるがゆえの、変化の活発な時代が現代インドネシア
語を取り囲んでいるようにわたしには思えるのである。


言葉にはフォーマルとインフォーマルという要素が絡んでいる。それぞれがTPOに応じ
て選択されるべきもので、たいていの国の文化ではそれを行うことがその人間の持つ知性
と社会的成熟度を示すものと見なされているのではなかったろうか。この種のビヘイビア
はポジティブな価値付けをされる傾向のほうが高く、TPOが区別できない人間、あるい
は誤った選択をする人間に対する評価の視線は厳しいのが普通だとわたしは思っているの
だが・・・。

基本的に書き言葉はフォーマル、話し言葉はインフォーマルという傾向が存在していたも
のの、インドネシアにおける昨今のバハサガウルやネット言語の使われ方は過去の常識を
破壊するようなものになっていて、このような時代にインターネットでインドネシア語の
実地体験をするひとびとの言語感覚は言語面における常識、もしくは良識、から外れたも
のになりかねないから、それを傍らで見ている昔タイプの人間はハラハラさせられる運命
に甘んじなければならない。

インドネシア語は教育行政界と言語専門家が標準と標準外という基準で正しい単語の選択
を行い、それをKBBIに反映させている。標準単語はインドネシア語として正しい形式
を備えたものであり、それが使われることによって表現された文が目からにせよ耳からに
せよ、知性のある成熟した人間が作り出した格調あるものという印象を受け取る人間にも
たらすことになる。

バハサガウルやネット言語のほとんどは標準外インドネシア語に区分されているため、K
BBIに顔を出すものはほとんどない。KBBIに口語として掲載されているものも本質
的には標準外単語であり、フォーマルな場面で使われるべきものではない。

たとえば「疲れた」を意味するcapekだ。KBBIには口語と表示されていることから、
フォーマルな場面ではその原型であるcapaiが使われるべき妥当な単語になる。標準イン
ドネシア語でない単語は標準のものよりも格が下なのであり、フォーマルな場でそのよう
な単語を使う人間の知性と人格がそこで天秤にかけられているということになるのである。

たとえバハサガウルやネット言語にどれほど習熟してネイティブ並みに操ることができて
も、フォーマルとインフォーマルの場面に応じた言葉の使い分けができなければ、社会生
活を営むための国語としてのインドネシア語に高い能力を持っているとは、少なくともま
だしばらくの間は、だれも言ってくれないだろう。

教本やインターネットでインドネシア語を学習するひとびとにとっての難しさがそこにあ
ると言えるにちがいあるまい。