「ルピアコインの悲哀(1)」(2019年09月26日)

インドネシアでコインは半端物だ。インドネシアにおけるコインの悲運は、「コイン」を
キーワードにしてインドネシア情報ライントップページにあるサイト内検索をかけると、
いくつかの関連記事を見出すことができるだろう。

巷間でよく言われているがごとく、アンコッ運転手が客の支払った少額コインを路傍に投
げ捨てたり、客が大量に持ち込んでくるコインを市中銀行が相手にしないようなことさえ、
現実に起こっているのである。

わたしがインドネシアに暮らし始めたころ、補助金付きガソリン「プレミウム」の市場小
売価格はリッター150ルピアだったように記憶している。給油する時わたしは日本でし
ていたように頻繁に満タンを指示していたが、給油メーターがたとえば32.2リッター
を示すと、かれらは33リッター分の価格を請求してくるのに驚かされた。金銭授受に正
確な算数が使われない文化があることを実体験して驚いたということだ。

もっとよく観察していると、ガソリンスタンドでは1,5,10ルピアコインが使われて
いないことが見えてきた。そしてそれに対応するかのごとく、他のインドネシア人運転者
たちが満タンというおおざっぱなオーダーをせず、みんながxxリッターもしくは1千ル
ピア分というように具体的なオーダーをしていることも見えてきた。

おおざっぱなオーダーをして余分に金を払うわたしの姿は、金持ちぶるガイジンの若僧と
いうようにかれら現地人の目に映っていたにちがいあるまい。日本レストランで食事した
後の支払いの際に、税サービス料が加えられて半端になった金額を紙幣で支払うと、レジ
係のお姉ちゃんたちはあたかも当然であるがごとくコインの釣銭を一切よこさず、しゃあ
しゃあとした顔でトゥリマカシを言う姿に接して、わたしはその精神性をガソリンスタン
ドでの体験の延長線上にあるものと解釈していた。正確な算数が使われず、客を金持ち扱
いして自尊心をくすぐる対応姿勢がそれだろう、という理解だ。なにしろ、金持ちでなけ
れば金を余分に払うことは期待できないのだから。

お姉ちゃんたちがそうやって?き集めた釣銭を従業員たちの間で個人収入として分配し、
あたかもチップのような性質をそこに持たせてプラスアルファ収入にしていたのは想像に
余りあるところだが、金持ちにとってコインは金銭じゃないという価値観がそのチャンス
を生み出す引き金になっていたことは言うまでもあるまい。

お姉ちゃんたちの行為を悪事と見なすか、それとも客を金持ち扱いする感覚面における対
客サービス姿勢と見なすかは人によって異なるかもしれないが、金銭授受には正確な算数
が使われて過不足を発生させないことが授受を行う両者間の権利と義務に関わることがら
であるという、別の世界で通用している文化が持っている価値観がインドネシア文化の中
で粉砕されてしまった印象を抱かされたのが、わたしの初期のインドネシア体験だった。


「ルピアレートの変遷」を読むなら、インドネシアという国が「コツコツ働いて(貯えて)、
塵も積もれば山となる」という金銭感覚の育まれるはずのない社会であったことが分かる
にちがいない。コツコツ貯えるのはたいていが小銭であり、歳月をかけて貯えた小銭の山
が短期間に価値を暴落させるようなことが頻発するのであれば、塵を積もらせようとする
ことの愚かさ加減はどんな愚か者の目にも明白に映るにちがいないからだ。

コツコツと倦まず弛まずに貯蓄に励むことが愚かさの極と位置付けられるのなら、その正
反対の極にあるものが何なのかは、きっと言わずもがなだろう。利口に、時に狡猾に立ち
回って、手っ取り早く一攫千金を目指すことがその対極に置かれるものとなるにちがいあ
るまい。頭の良い、優れた人間の振舞いがそれだというわけだ。こうしてジャランピンタ
ス(jalan pintas =近道)思想がインドネシア文化のひとつの価値の柱として屹立する
ことになったとわたしは見ている。[ 続く ]