「ルピアコインの悲哀(2)」(2019年09月27日)

加えてインドネシア文化にはもうひとつ、コインを踏みつけにする価値観が存在している。
それは、金稼ぎに秀でた人間は優れた人間であり、金持ちとは社会的に偉い人間である、
という人間観だ。

インドネシア人にとって金持ちになることは、他人が羨むような贅沢三昧の暮らしをした
いという欲望のためだけでなく、金持ちであるというステータスに応じて世間から立派な
人物・偉い人として遇されるという自尊心、もっと言うなら自己の存在意義、に関わる面
をも持っている。

そのロジックをもっと敷衍するなら、ここの文化で大金持ちになることは社会的影響力を
持つことであり、また他人を思うがままに動かす権力を持つということへと発展していく。
つまり金の亡者と権力の亡者は同居するのが普通の姿であるという文化だ。

ミナンカバウではランカヨRangkayoという称号がダトゥッDatuk、トアンTuan、ンチッ
Encikなどと並んで貴人や社会的有力者の名を口にする時に使われている。ジャカルタに
は、スディルマン通りの東側を並行して南北に走るラスナサイッ通りがあるが、その公式
フル名称はJalan H. R. Rasuna Saidであり、H. R. はHajjah Rangkayoという称号を意味
している。貴顕に対して用いられるこのランカヨとはorang kayaのミナン語形であり、つ
まりは金持ちという語が直截的に使われているのである。

社会生活の中で接触する人間が金持ちであるかどうかは普通、その人物の金遣いから判断
される。大金持ちでありながら大金は秘匿して、日常は質素な暮らしをしている人間は、
かれのファイナンシャルストックを知らなければ周囲の人間はまずかれを貧乏人と見なす
はずだ。

反対にストックなどほとんど空っケツであっても、高価な衣装でプレミアムカーに乗り、
宝石まみれの女をはべらせて、どこへ行ってもチップをばらまく人間は金持ちと見なされ
る。そんな様子に似合っているのが札束なのであり、コインを手のひらに載せて数えるよ
うな姿など、イメージ丸潰しであるのは言うまでもあるまい。そのような場にあっては、
コインは金銭じゃないということになる。

金持ちかどうかという判断はファイナンシャルフローに焦点が当てられるばかりで、スト
ックの有無や多寡など、取り巻き連中はまったく問題にしない。潤沢なフローがいつまで
持続するかは本人の問題であり、フローが枯れてくれば取り巻き連中はかれを見捨てるだ
け。だから、その金がどこに由来しているのかなどという詮索は、まったくビューティフ
ルでないのである。札びらを切る人間の価値は、その瞬間において凝結するのみなのだ。


こうして金持ちのふりをし富を見せびらかす人間が金持ちと見なされ、社会的貴顕・有力
者の地位を与えられて世の中からちやほやされ、本人は自己の存在価値を謳歌することに
なる。インドネシア社会が持っている、ストックよりもフローに目をくらまされてその人
間を金持ちであるかないかの評価基準に使う面が、「金銭はイージーカム・イージーゴー
である」という社会的金銭観の源泉になっているようにわたしには思われる。

おまけにその観点の中では、金持ちかどうかが人間の価値を決める最大条件になっていて、
人間としてのクオリティへの斟酌は価値を決める要件の中で低いレベルに置かれてきたよ
うに見える。外見重視・本質軽視という社会慣習が人間のみならず世の中のありとあらゆ
ることがらに関してクオリティ評価能力を養うことをかれらにもたらさなかったと言えば、
牽強付会と非難されるだろうか?[ 続く ]