「ルピアコインの悲哀(3)」(2019年09月30日)

またひとつ、わたしの見聞談をご紹介しよう。ジャカルタに住むある一族の娘のひとりに
ヨーロッパ人の男がついて、ふたりは結婚を合意したが両者側のさまざまな事情のために
なかなかゴールインにたどりつけない。

この一族はまあ中流レベルの経済階層に属しているとわたしは位置付けているが、昔のイ
ンドネシアの中流経済層というのは、先進国の人間の目には貧困階層に紙一重程度にしか
見えないものだった。

ヨーロッパ人の男は娘の一家への経済援助のために、生活費の支援をするようになる。娘
はもちろん親孝行というインドネシアの価値観に沿って一家の生活レベルを向上させ、一
族の間で見上げられる評価を得た。

一族の間でその娘が「成功者」という言い方で評価されている実態を目の当たりにしたと
き、わたしは開いた口が塞がらなかったのである。その文化における社会構成員の「成功」
とは何なのか?それは文化によって異なっていてもなんらおかしいものではないのだが、
とはいえ、インドネシア人にとっての人間の生き方の中にある「成功」という価値観がど
のような内容を指しているのか、わたしは信じられない思いでその事実を何度も反芻した。

同じことは、都会に移住してミドルクラスに入ったひとびとがルバラン帰省する際にレン
タカーに大量の土産物を積み、大金を持参して毎年故郷に錦を飾る姿にも投影されている。
故郷の親類縁者旧友たちに成功者としての姿を、たとえそれが欺瞞に満ちた虚像であった
としても、示し見せつける願望の実践がそれなのだろう。

インドネシア文化における「成功」「金持ち」「社会的栄誉」「偉い人物と見上げられる
こと」「自分に尊重や敬意が払われること」「自己存在に対する誇りと満足感」といった
ものごとの中心線を金銭(ゼニ)が貫通している実情が目に見えるようだ。


2006年以来10年間に中銀は6兆ルピア相当のコインを発行した。紙幣にせよコイン
にせよ、通貨は市場を周遊し、市中銀行に戻り、その一部が中央銀行に回収される。10
年間に中銀に戻ったコインはわずか9千億ルピア相当でしかなかった。その一方で市場に
は慢性的なコイン不足が起こっている。それらの事実から、中銀が市場に送り出したコイ
ンはほんの一部分しか流通せず、大量に捨てられているかもしくは大量に隠匿されている
可能性が推測されている。

通貨当局が発行したコインが「硬貨は金銭じゃねえ」と一部にせよ粋がっている国民から
一部金融機関に至るまでまともに取り扱われず、あげくのはてに少額取引が日常必ず起こ
る商店に釣銭不足が発生して、商店は飴玉を釣銭に使うという苦肉の策を展開すれば、通
貨当局をはじめ良識ある国民たちから袋叩きに合う始末だ。

釣銭がないから、と悪徳タクシー運転手をはじめ不遜な商店のレジ係お姉ちゃんに至るま
で、客から余分な金をせしめることを恥じない一部国民の態度に比べれば、飴玉の釣銭は
まだ店側の誠意を示すものと解釈できるわけだが、いったい誰が世の中のコイン不足の原
因を作っているのかはいまだに謎になっている。

通貨当局は国民生活に十分な小銭を社会に送り出していると自己正当性を主張しているも
のの、大量の小銭を持ち込んでくる客を適当にあしらうだけの市中銀行への監督は今一つ
はっきりせず、社会の中で闇から闇に消えている感のあるインドネシアのコイン問題の謎
は今のところ、ここの固有の民族文化に帰するしか理解のしようのないことがらのように
わたしには思われるのである。つまり、誰がではなく、誰に指揮されることもなしに世の
中の大半がよってたかってその原因を作っているのではないかという憶測がそれだ。
[ 続く ]