「日本軍政期のコメ不足(下)」(2019年10月17日)

コメ倉庫はインドネシア人プリブミの暴動と打ち壊しで、その多くがズタズタになった。
日本軍政期間中の華人系産業セクターの損害はこのコメ流通分野がもっとも正確な状況を
示している。他の産業セクターについては情報があやふやな点があって、正確な状況がよ
くわかっていない。

日本軍進攻前のジャワ島では、コメ倉庫の95%が華人系で占められていた。日本軍政期
間中のデータによれば、444カ所のコメ倉庫のうちで59カ所が使えない状態だった。
コメ不足が深刻化した原因は単純でない。既述した事件に加えて、農村から労働力が労務
者として各地に送られたために、農村に男手が足りなくなったこともコメ生産に大きい影
響を与えた。


1944年に状況はさらに悪化し、プリブミ指導層が危機感をつのらせるようになる。そ
のような状況下に大日本帝国はインドネシアの独立を約束し、その追い風を受けてコメ不
足問題の克服を図るためにプリブミインテリ層が知恵を集める第四回参与会議が1945
年1月8日に開催された。参与会議というのは、インドネシアにおける日本軍政のための
アドバイザー会議である

会議議事録原本はアムステルダムのオランダ国立戦時資料研究所が保管している。議事録
全編は二部に分かれていたが、そのひとつしか収集されず、もうひとつは歴史の海底に没
してしまった。唯一保管されていたその資料を米国コーネル大学が英語に翻訳して公表し
たのである。

参与会議議長はスカルノで、会議出席者はモハンマッ・ハッタ、ブンタラン・マルトアッ
モジョ、キ・ハジャル・デワントロ、スポモ教授から成り、会議の中でオットー・イスカ
ンダルディナタがリーダーを務めた6人の現場調査チームがジャワ島を中心にする現場の
実態報告を行った。

調査は6人がそれぞれ異なる地域を、オットーはプリアガン・ボゴール・バンテンのレシ
デン区、スロソはスラバヤ・マラン・ブスキのレシデン区といったように分担して行った。

チームの結論は、モミ米の収集が妥当なあり方で行われていない、というものだったのだ
が、それは支配者である日本軍が望んでいるやり方であり、インドネシア人にはどうしよ
うもないことがらになる。戦争遂行のための軍需物資としての備蓄米と、インドネシアに
おける民生用として米穀卸商組合を通じて市場に流通させるコメという二分方式は動かし
ようのないものだった。

チームを代表してオットーは、1944年に激しい干ばつが起こったためにコメ生産は期
待を大きく下回る結果になっていることを挙げ、また農民が戦時下という状況に適応でき
ていないことも付け加えた。

インドラマユとスムダンでは水田作業者の数が大幅に減少していること、品質の適正な苗
があまりにも少ないこと、そしてまた、コメの闇市が各地にできていることも報告した。
ジャカルタからクディリまでの地域では、コメ価格はリッター当たり最高3.25フルデ
ン最低1.50フルデンという激しい価格差が存在している。

コメの供給管理が十分に組織化されていない結果、住民にもたらされている影響の中には、
健康状態の悪化、病気抵抗力の低下、死亡率が出生率を上回るようになっていること、労
働力の減少、病気が広がりやすくなっていることなどが挙げられるとオットー・イスカン
ダルディナタは強調した。

1944年第一四半期にクドゥでは、出生率31.5パーミル、死亡率29.5パーミル
だったが、第二四半期には出生率32.4パーミル、死亡率33.9パーミルに逆転し、
第三四半期は更に出生率25.8パーミル、死亡率39.2パーミルに差が拡大した。オ
ットーはそれを栄養状態の悪化と結論付けている。
モハンマッ・ハッタはその対応策として、各村の消費量と生産量を調査して余剰のある村
にだけ余剰分を提出させるようにしてはどうかという意見を述べた。そうすることで、民
衆は生活のための食糧基盤を確保することができる。


インドネシア人知識層にとって、この第四回参与会議議事録はたいへんユニークな資料で
ある。この会議に集まったひとびとは、それから何カ月か後に独立を宣言するインドネシ
ア共和国の指導者となりうべきひとたちだったのだから。その点を考慮してコーネル大学
インドネシア学者ベネディクト・アンダーソン教授は議事録翻訳文の序文に「この議事録
はわれわれがはじめて見つけた(インドネシア初の)閣僚会議議事録と呼べるものだ。」
と記している。[ 完 ]