「日本軍政期点描(2)」(2019年10月18日)

1942年3月4日、オランダ軍はバタヴィアを放棄して内陸部に移動し、翌日の日没が
過ぎてから、バンテンに上陸した日本軍主力の先遣隊がバタヴィアに入って来た。ジョヨ
ボヨJayabaya王(ジャワ語ではジョヨボヨが正しい発音であり、ジャヤバヤはインドネシ
ア語の読み方での発音)の予言が実現したと信じた原住民が、救世主たる黄色い小人の軍
勢入城に狂喜乱舞したのはその通りだったが、三年半の間にそのユーフォリアが180度
の転換を示したのを無視してはなるまい。「終わり良ければすべて良し」はシェークスピ
アの思想であって日本文化は違っていると見る向きがあったとしても、「始めは良かった
が、最後は劣悪」という現象を素晴らしいと見なす思想は日本文化の中にもあるまい。


余談になるが、ジョヨボヨの予言にある「黄色い小人が支配する期間はトウモロコシの生
育期間でしかない」という解釈に疑問を投じた方がいらっしゃる。中南米がトウモロコシ
の原産地であって、新大陸発見後に新大陸の物産が旧世界にもたらされたのだから、ジョ
ヨボヨが予言を語った時代とトウモロコシのジャワへの渡来は時期が前後しており、この
話はおかしい、というのがその方の衝いたポイントだ。わたしは脱帽した。

この話の詳細は:
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10201475210
で見ることができる。要は、現代インドネシア語のjagungが持つ意味と古ジャワ語におけ
る意味が異なっていること、そして古ジャワ語の時代に使われたjagungの意味を現代イン
ドネシア語で理解し、それを信じて史的事実による検証を怠った世界中の人間の過ちとい
うのが、この一件に投影されている愚行であるにちがいあるまい。


さて、日本軍政はインドネシア民衆の心を惹きつけようとして三A運動を宣伝した。その
スローガンが、Nippon pemimpin Asia, Nippon pelindoeng Asia, Nippon tjahaja Asia
だった。西洋人の植民地主義の奴隷にされたアジアの諸民族を解放するためにやってきた
という声明は熱烈歓迎された。

チャハヤティムールTjahaja Timoer紙がさっそくインドネシア人内閣をこんなメンバーで
作ったらどうかと夢の組織図を描いた。首相アビクスノ・チョクロスヨソ、副首相スカル
ノ、外相スジョノ、経済相モハンマッ・ハッタ、教育相キ・ハジャル・デワントロ、宗教
相KHマンシュル・・・。しかし翌日、軍政監部はその記事が間違いであると公表した。
さっそく水をかけられたわけだ。


ジャーナリストで歴史家のアルウィ・シャハブ氏の2015年11月の記事の中にこのよ
うな文章が見られる。

日本軍占領時代のジャカルタやヌサンタラはどんな様子だったのだろうか?
アリ・サティリさん(79歳)の話はこうだ。「食べ物がなくなりましたね。どこにも売
られていない。手に入るのは闇ルートでだけで、量もあまりない。せいぜい二三日分の量
でしたよ。」

当時郡長を務めたスジョノ・ハディプラノトさんは、「日本の軍隊が必要とするものは、
問答無用で取り上げられました。Milik Dai Nipponと書いた札を貼っていくんですよ。」
と語る。

ある主婦の話では、一軒の家庭の中に4キロ以上のコメを置いてはならないという禁令が
出されて、折に触れて抜き打ち検査が行われ、違反が見つかると逮捕されたそうだ。おま
けに憲兵隊にしょっぴかれる。血も涙もなく体刑を加える憲兵隊はインドネシア人の恐怖
の的だった。

文学者HBヤシン氏は「日本占領下に」と題する著作の中に、憲兵隊に捕らえられて一週
間拘留された体験を披露している。「憲兵隊の残虐さは言葉に尽くせない。わたしはタン
ジュンプリオッにある憲兵隊本部に一週間拘留されたことがある。メガネを取り上げられ、
取調べは激越な下卑た言葉が怒声となって降り注がれた。足を上、頭を下にして拷問され
たこともある。わたしの自転車はかれらに奪われた。」

夜には町内見回り班が「空襲警報」と連呼することがある。するとすぐにすべての電気を
消して、庭に掘った防空壕の中に逃げ込まなければならない。防空壕の中では、厚みがお
よそ5センチほどの丸いゴムを、ボクサーのマウスピースみたいに口の中で噛まなければ
ならない。爆弾が落ち始めたら、強く強く噛むのだそうだ。


それらを読む限り、インドネシアの一般民衆にとって日本軍政期は3世紀半のオランダ植
民地時代があたかも3年半に凝縮されたような印象になっていると言って過言でない雰囲
気だ。

コメの備蓄量を調べに、勝手に家の中にずかずかと入って来る日本兵は、同じようにして
家の中や路上にいる若い娘を連れて行ったという話をするひともいる。たいていは外国の
学校に行けるとか俳優になれるといった言葉で誘惑したらしく、力ずくで無理やり拉致す
るような方法は街中ではあまりなされなかったらしい。そんな娘たちの行く末が将校の囲
い者になったか、あるいは多数の兵隊のための従軍慰安婦になったのか、それは運命が答
えを出した。

どっちになろうとも、インドネシア人はそういう境遇を慰安婦wanita penghiburと呼んだ。
日本軍がプルンプアンという名詞を淫猥な語感で塗りつぶしたために、インドネシア人は
wanitaという名詞を導入してもっとニュートラルな、つまりインドネシア的人間観に即し
た女性という言葉が持つべき語感を回復させたという説がある。もしその通りであるのな
ら、慰安婦というものを見るインドネシア社会で用いられた視点はそれほど深い蔑みの色
合いを持っていなかったということになるのだろうか。

慰安婦というのは、決してすべてが売春宿の女たちのように、何人もの男を終日相手にす
るものばかりではなかったということらしい。そこには特定の男を旦那にして地位と金を
謳歌した娘たちも混じっている。もちろんその娘に飽きた旦那が交代者を連れてきて、先
住の娘がいきなり家の外に追い出されるようなことも起こったし、同僚の持っている娘と
スワップを行うようなことも当たり前のように行われたそうだ。

そんな娘たちの中に、官憲の手先になって、街中でスパイ活動をした者もいた。この種の
密告者はkipas hitamと呼ばれていた、とアルウィ・シャハブ氏は書いている。