「ニッポニサシ、つまり日本化」(2019年10月21日)

日本軍政が開始されてから程なく、インドネシア民衆は日本のカレンダーを使うよう命じ
られた。日本のカレンダーと言っても明治以来の方針で西洋暦に合わせてあるのだから、
オランダ時代のものと月日と曜日にはまったく不連続が起こらなかった。ただ年号を除い
ては。

日本のカレンダーには大日本帝国の年号である皇紀が記されている。皇暦tarikh Sumeraと
呼ばれた年号は、その年西暦1942年のものが皇暦2602年となっていたのである。
同時に、日常生活に使われる時間は東京時間が使われた。だからその時代のインドネシア
標準時間は単一で、しかも日本との間に時差が存在しなかった。日本軍が占領した東南ア
ジアのすべての地域で同じ扱いがなされたそうだから、たとえばシンガポールの標準時間
などは、イギリス時代・日本時代・シンガポールマレーシア時代、独立シンガポール時代
と目まぐるしく変化したように聞いている。


インドネシア人はこの文化強制をNipponisasi(日本化)と呼んだ。ニッポニサシの開始は
西暦1942年4月29日の天長節の日であり、それ以後インドネシアの公式暦日の表記
に使われ、公式文書から新聞雑誌ラジオに至るまで社会の中に浸透した。

インドネシア共和国が独立して新政府が公式年号を西暦に戻す決定を国民に下すまで、法
律上は皇紀の使用が義務付けられていると見るのが正しい法的姿勢であるものの、現実に
はそれまでも多くのひとびとが皇暦と西暦を並べて書くことを行っており、「Nippon 
kalah!」「Indonesia Merdeka!」の雄叫びが巻き起こした希望と興奮がインドネシアの民
衆に、そのような行政手続きを待つまでもなくさっさと皇暦を捨てさせるビヘイビアを誘
ったことは想像にあまりある。

そのような状況下に置かれていたインドネシア共和国独立前夜の独立宣言文作成作業に関
わった多くのインドネシア人政治指導者たちは正しい法的姿勢を理解していたにちがいな
く、独立宣言文に書かれた年号はそんな枠組みの中に起こった自然現象であると理解され
るべきではないだろうか。そこに好悪の感情を濃く漂わせた希望的観測の肉付けを行って
過大評価するのは、インドネシア人というものの本質を見失わせる目くらまし効果をもた
らすばかりだろう。

皇暦の実施に伴って、国家行事としての公式祝祭日hari besarも定められた。長くなるが、
インドネシア人に与えられた18のハリブサールを下記しておく。
1 Djanoeari : Sjihoohai = Tahoen baroe
3 Djanoeari : Gensji Sai
5 Djanoeari : Sjinnen Enkai = Pesta tahoen baroe
11 Pebroeari : Kigen Setsoe dan Kenkokoe Sai = Pembangoenan Negara
6 Maart : Tjikjoeoe Setsoe = Hari mauloed Kogo Heika
10 Maart : Rikoegoen Kinenbi = Hari kemenangan tentara darat Dai Nippon dalam perang 
Nippon-Roeslan
21 Maart : Sjoenki Koorei Sai = Oepatjara mempermoelia Arwah Tenno-Tenno toeroen-
temoeroen
3 April : Djinmoe Tenno Sai = Hari mauloed Djinmoe Tenno
29 April : Tentjoo Setsoe = Hari mauloed J.M.M. Tenno Heika
30 April : Jasoekoeni Djindja Sai 
27 Mei : Kaigoen Kinen Bi = Hari kemenangan lasjkar laoetan dalam perang Nippon-Roeslan
24 September : Sjoeoeki Koorei Sai
17 Oktober : Kanname Sai
23 Oktober : Jasoekoeni Djindja Sai
3 Nopember : Meidji Setsoe = Hari mauloed Meidji Tenno
23 Nopember : Niiname Sai
8 Desember : Kooa Sai = pembangoenan Asia Raja
25 Desember : Taisjoo Tenno Sai = Hari wafat Taisjoo Tenno
Tiap-tiap tanggal 8 dirajakan sebagai hari Taisj Hoosaibi

日本軍政はオランダ語を徹底的に排除してインドネシア語を公式言語にし、日本語を学校
で教えさせ、ヨーロッパの書籍が集まっている図書館を閉鎖し、日本語以外の言語で書か
れた書籍の流通を禁止した。もしもインドネシア語の書籍が民間から世に出て来れば、そ
れは内容次第ということになったのだろうが、まだまだそういう時代ではなかったにちが
いない。

ところが、オランダ語を話す人間は敵スパイであるから死刑に処すという厳しい態度とは
裏腹に、日本軍政はオランダ人がそれまで使っていた現地語表記のための綴り方をそのま
ま踏襲したのである。それはオランダ語表記法をベースに置いた綴り方になっており、オ
ランダ人だから容易に読み書きができるのであって、70年くらい前既にオランダ語をや
めて英語に乗り換えた日本人にはなじみにくく、扱いづらいのは言うまでもない。

何しろ当のインドネシア人が独立してからその綴り方を打ち捨てて、英語式のものにすり
寄って行ったくらいだ。だから上に示されているアルフェベット文字の並び方に目を回し
た読者があったとしても不思議ではない。

インドネシアにやってきた日本軍兵や軍属も同様だった。だから日本語をインドネシア社
会に示す時、既存の綴り方に配慮して書いた日本人もいれば、自分が日本で習得した英語
ベースのローマ字を使った者もいて、この時期の日本語のアルファベット綴りには甚だし
い揺れがある。


目を回した読者に目を覚ましていただくために、当時の綴りと現代インドネシア綴りの対
照を示しておこう。
dj → j,  j → y,  kj → ky,  oe → u,  sj → sy,  tj → c
Meidjiの分節はMei-djiに分かれ、現代インドネシア語ではdj → jが適用されるために
Mei-jiに変わるのであって、昔の綴りをMeid-jiと分節してはならないのである。

インドネシア人の人名は昔の綴り方を維持しているひとが多く、そのため今現在でさえ人
名の読み方には何倍もの注意を払う必要があることを特記しておこう。