「短縮語作りは言語破壊行為か?」(2019年10月24日)

ライター: 文司、インドネシア語シソーラス編者、エコ・エンダルモコ
ソース: 2014年10月4日付けコンパス紙 "Singkat Kata"

一部のインドネシア語オブザーバーたちが短縮語や省略語のありさまに不快を表明したこ
とがある。特に印刷メディアやソスメドでの使われ方があまりにも行き過ぎたものになっ
ており、インドネシア語の破壊につながると見られたからだ。インドネシア全住民の共通
の家であるインドネシア語が短縮語の使用によって壊されるようなことが起り得ようか?
いや、その議論の前に、いったい何がひとびとを短縮語の使用に向かわせているのだろう
か?

一部の人にとっては、思考の回転が筆記作業よりスピーディになったり、情報源の話が速
くて筆記者が追い付かないとき、言葉を短縮して書こうとするのが自然な姿勢となるにち
がいない。そこにyg (yang), th (tahun), sbg (sebagai), sdg (sedang), dst (dan 
seterusnya)などが登場する。一方、量・単位・化学記号などに短縮語が使われるのは普
通のことだ。gr (gram), l (liter, m (meter), kg (kilogram), fe (ferum)などがそれ
に当たる。シンボル化や固有名称の緻密化がABRI (Angkatan Bersenjata Republik In-
donesia), Ikapi (Ikatan Penerbit Indonesia), FISIP (Fakultas ilmu sosial dan 
ilmu politik)などのような言葉を生む。

識字率の高い国では節約・組合せ・実用的ということよりもスピードや近道ということに
価値が置かれて、短縮語や省略語がどんどん作られていく。十年位前のアクロニム・頭字
語・短縮語辞典には、ポルノがかったものや侮蔑的なものを除いて印刷物から集められた
語彙3万3千語が収録されていた。ところが2009年には語彙数が5万7千語に膨れ上
がっているという話を聞いている。

そればかりか、アクロニム・頭字語・短縮語辞典という書名は今やアクロニムAIDSに
変えられた。その変化はまるで、短縮語がエイズウイルスのようなものだと述べているよ
うな印象をもたらしている。アクロニムや短縮語のユーフォリアがあまりにも行き過ぎた
状態になっていることにわたしも同意する。時に論理を逸脱した怠惰の反映と感じられる
こともあるのだから。


短縮語やアクロニムをマスメディアやソスメドの中で見つけるのはとても簡単だ。マスメ
ディアでの使用は一般大衆にそれほどの影響をもたらしているわけではないが、ソスメド
の方はすさまじい影響を与えている。ソスメドは個人の考えや気持ちを一瞬にして大勢の
人に伝えることを可能にしており、短縮語もそのハイウエイに乗って世界の隅々にまで拡
散して行くのである。その発信を受けた別の者がそれをかれの仲間に伝えて行くなら、エ
コー効果は拡散の規模とスピードを数倍増させることになる。

ただし、それがゆえにインドネシア語が障害を受けたり、言語破壊が起こっていると結論
付けることが可能なのだろうか?わたしにとって、それは容易に信じられないことだ。た
くさんの短縮語が出現するとき、それは言語の活発さやダイナミズムを証明するものとわ
たしの目には映る。そこには創造性があるのである。インドネシア語は自己が持っている
自分のためのルール、長い歳月を経て制度化しているルールをもって自己を維持し続ける
能力を有していることをわたしは深く信じている。短縮語の作り方がいまだかつて存在し
たことがないという点において、わたしはあのような見解の妥当性に賛成することができ
ない。誰もが自分のお気に召すままに短縮語を作ってかまわない。一般的に恒久性を持た
ないバハサガウルの造語傾向が持つネオロギズムに似たものだ。それは次のようなロジッ
クを導くことになる。あらゆる形態の短縮語は合意や約束された言語法則に従っているこ
とが世の中に受け入れられて存続するための必須条件なのである。

要するに、毎日どれほど大量の短縮語が作られようとも、それらはインドネシア語という
宇宙の中で起こる自然淘汰のプロセスを避けることができない。そのプロセスを経て野生
の牙を抜かれた短縮語はもはや、インドネシア語にかみついたり、ましてや破壊するよう
なことをするはずがないではないか。