「リニとリナの物語(後)」(2019年11月06日) リナもふたりで行うセックスを愉しんでいて、そこで得られる興奮や快楽を望む者同士が 自由意志で好きに行っているのであり、相手に対してそれ以上の責任を持たなければなら ない筋合いは何もないと男の側は見なしている。男の側にしてみれば、「嫌なら拒否すれ ばいいじゃないか。オレは無理強いしないよ」と言うだろう。 もちろん、相手の男が女の側の精神的な弱さ脆さを見抜いていて、うわべをとりつくろい ながら女の肉体をしゃぶりつくそうとしているケースがないわけでもない。女を征服して 無料の性的快楽を心ゆくまで愉しむ能力を持っている男の中の男だと自分をヒーロー視し ているかもしれない。 男は自分の成果に満足したり、相手に飽きて来れば、女を悪者にして去って行く。「淫乱 の売女」を捨て台詞にして。 リニとリナのストーリーはまったく異なる境遇を背負ったふたりの若い女性を簡略的に描 いたものだ。リニは教育に欠けた貧しい村の出であり、一方のリナはジャカルタの邸宅に 住むアッパーミドル層出身者で高等教育を受けている。ところがこのふたりの女性には共 通点がある。ふたりとも人間としての価値を認めてもらえず、他人に利用され、トラウマ にまとわりつかれて自己を見失っている。 更生施設で黙ってうつむいているリニの、15歳にしては小柄な姿をはじめて見た時、わ たしは言うべき言葉を失ってしまった、とプルワンダリ医師は書いている。 「わたしたちが希望するのは子供たちを保護し慈しむ両親をすべての子供たちが持てるこ とだけど、現実には慈愛でわが子に接しようとせず、それどころか子供に酷いことを平気 でする親がいる。たとえそうだとしても、あなたは自分自身を慈しむことを約束できるか しら?」 リニは顔を上げ、少し光の宿った目でわたしを見、うなずきながら「できます。」と言っ た。 「どんな風に?自分に良くしてくれるひとと自分に酷いことをするかもしれないひとを、 どうやって見分ける?どうやって自分の身を守る?」 困難で多くの限界を抱えているリニの生活環境の中で自分自身をどのように大切にしてい くか、プルワンダリ医師はリニと長い対話を続けた。 リナについては、もっと勇気を出して自分を慈しむよう誘導して行くことにまだあまり成 功していない、とプルワンダリ医師は語る。犠牲者意識の連鎖を絶ち、ポジティブな新し いストーリーをスタートさせるためにどうすればよいのか?リナをありのままに受け入れ てくれる人生のパートナーへの希求が、かの女にティダを言えなくさせている。人生の失 敗者という烙印を自分自身に課している精神構造を投げ捨てて、自我を罠から解き放つ新 たな規準を持たせるにはどうすればよいのか? 「確かにわたしは女性を侮蔑する性的虐待行為の被害者になったことがあります。でもそ れはわたしの落ち度ではなかったのです。」リナは頭を上げ胸を張って世間にそう言わな ければならないのだ。自分の好まないこと、自分が尊重されていないと感じることに対し て、リナはティダを言わなければならない。その訓練を重ねて行くというシンプルな方法 で、リナは自分自身を慈しむ習慣を身に着けることができるだろう。 若い女性や子供を餌食にしたり、その未来の人生を蚕食しようとする人間は、あちこちに 密かに、あるいは堂々と、存在していることだろう。たくさんの見知らぬ人間の間にも、 あるいは教師から親に至るまで、宗教の教えだという盾の陰で自分の行為を正当化しなが ら。 かの女たちを餌食にしようとしている者たちからの暴力や児童婚からリナやリニを守るた めに、マクロ政策のコンテキストにおける一貫性を持った法規の実践が必要とされている。 パーソナル心理上のコンテキストにおいても、わが国民の若年世代が最大限の成長を実現 し、また自分自身と世の中にとって有益な決定を下す能力を持たせることができるよう、 さまざまなステップが踏み行われる必要がある。プルワンダリ医師はこの論説をそう締め くくっている。[ 完 ]