「英雄軍人は捕虜だった(後)」(2019年11月07日)

3月1日に日本軍がジャワ島西端のムラッMerak海岸とその東側にあるバンテン湾に上陸
したことが報じられた。その後3月4〜5日になると、病院に送られて来る負傷者が激増
した。バイテンゾルフ方面で行われたルウィリアンLeuwiliangの戦闘で負傷した連合軍兵
士たちだった。

ムラッに上陸した那須支隊がバイテンゾルフ占領に向かったが、連合軍は市街から15キ
ロほど西のルウィリアンLeuwiliangに強力な防衛線を敷いて那須支隊の接近を防ぎ、3月
6日までバイテンゾルフの陥落を食い止めたのである。このルウィリアンの戦闘はインド
ネシアを含めて諸外国で種々の記事が出されているが、日本人はまったく関知していない
ようで、日本語記事が見当たらない。


ところで、インターネットで見つかる資料の中に奇妙な表現/事実のゆがみが見つかる。
そのひとつは、ジャワ島西部の日本軍上陸地点がバンタム湾のメラクだったというものだ。

メラクは現在ジャワ島とスマトラ島を結ぶフェリーの発着港であるムラッを指しており、
その位置はスンダ海峡に面していてバンタム湾(今のバンテン湾)ではない。バンテン湾
というのはムラッの東にある北に向かって突き出た半島部の東側で湾状になっている海で
あり、昔はバンテン王国の首府が海岸部にあった場所で、現在はセランSerangの町からま
っすぐ北に上った位置にある。

つまり正確には「バンタム湾のメラク」でなく、「バンタム湾とメラク」と表現されなけ
ればならないように思われるのだが、ところがジャワ島上陸地点がパトロルとクラガンと
の三カ所だったという表現に誘導されたのか、ジャワ島西部の二カ所がひとつにくっつけ
られたような印象を抱かせる表現がインターネットの中にたいへん多い。

戦史を調べると、ジャワ島攻略軍陸軍第16軍の主力である第2師団は司令官の指揮下に
バンタム湾上陸を敢行し、メラク方面甲地区に那須支隊、メラク方面乙地区に福島支隊が
上陸したということになっている。

更にジャワ海海戦(スラバヤ沖海戦)で壊滅した連合軍艦隊の生き残りである米国重巡ヒ
ューストンとオーストラリア軽巡パースがバタヴィアからスンダ海峡を抜けてインド洋側
チラチャップ港に向かおうとしたとき、バンテン湾で上陸作戦中の日本軍を発見して攻撃
に向かい、敗れて沈没したという戦史も見つかる。日本語ではその海戦をバタヴィア沖海
戦と名付けているが、英語ではBattle of the Sunda Straitとなっている。

スンダ海峡海戦となるといかにもメラク上陸軍に襲い掛かった印象をわたしは受けるのだ
が、およそ2時間にわたる海戦の大部分はバンテン湾沖でなされた印象が濃い。最終的に
パースはスマトラ島ランプン州マリンガイMaringgaiの南東およそ20数キロ沖合に沈み、
ヒューストンの残骸は米国海軍のデータではジャカルタ北方およそ60キロのスリブ群島
の東側にあるとのことだ。バンテン湾の名前がどうも外国人にあまり尊重されなかったよ
うな気がしてならない。


さて、ウエアリー中佐の話を続けよう。蘭領東インドの連合軍が3月8日に降伏した後も、
ダゴキリスト教高校の連合軍病院は活動を継続した。そこが閉鎖されたのは42年4月1
8日だった。その前日、失明し両腕が使い物にならなくなった患者ビル・グリフィスが日
本兵の銃剣で生命を奪われようとした時、かれはわが身を挺してその間に割って入り、あ
わやというシーンがあったそうだ。

中佐のカンポンマカッサル収容所での暮らしは1943年1月3日まで続いた。多数の捕
虜が移動を命じられ、1月4日にタンジュンプリオッ港に移動して船に乗り、シンガポー
ルに渡った。かれらは再びシンガポールから列車に乗せられ、タイとビルマの国境に向か
った。泰緬鉄道建設という強制労働がかれらを待ち受けていたのである。

ウエアリーは長い捕虜生活と死の鉄道建設を生き延びて故郷へ帰った。かれが捕虜期間を
通して部下や同胞に示したヒューマニズムがかれに英雄軍人の勲章を与えることに寄与し
た。かれは大佐に昇進し、サーの称号まで与えられた。メルボルンの戦争慰霊館にはかれ
の銅像が立っている。[ 完 ]