「女性の質的差別語??」(2019年11月13日)

ライター: コミュニティマタカタ活動家、メダン在住、ディアン・プルバ
ソース: 2009年5月29日付けコンパス紙 "Emansipasi Perempuan"

最初の子供が生まれたとき、その誕生を喜んで「子供は女ですよ。」と語る父親がいたた
めしがわれわれにはない。同じように、昇進したとき「わたしもキャリア女性になったん
だわ。」とつぶやく大卒の娘もいない。

だったらどうしてわれわれのカルティ二がputri sejatiと呼ばれるのだろうか?なぜなら、
putriは王の娘を意味しているからだ。わたしはここでカルティ二に少女婚を強いたシス
テムを解説する意図はないし、同様に、かの女が書いた横紙破りの文章によってカルティ
二を輝かせることになった異様に濃い封建文化の分析を行うつもりもない。今やそのよう
な文章は何ら特別なものでないのである。


カルティ二についての論説に必ず登場するwanita, perempuan, emansipasiという三つの
言葉を、わたしはここで取り上げたい。

KBBI(インドネシア語大辞典)第三版を開いてみよう。ワニタは大人の女性を意味す
る。プルンプアンとは、ヴァギナを備え、メンスが起こり、妊娠し、子供を出産して授乳
することのできる人間である。エマンシパシの意味は、(1)奴隷状態からの解放、(2)生活
面での諸アスペクトにおける同等の権利(たとえば男女同権)となっている。

emansipasi wanitaは社会経済面で低く置かれている地位や発展と進歩の可能性を制限し
ている法的束縛から女性を解放するプロセスと意味付けられる。

頭が良いと自認する者に必ず賢人の仲間入りができるとは限らないが、反対に賢人たちは
必ず頭が良い。ワニタとプルンプアンもそのような関係にある。ワニタは必ずプルンプア
ンであるが、プルンプアンの中にはワニタになっていない者がたくさんいる。

いずこの町でも、性欲発散地区が維持されている。そのような地区で働く住民をわれわれ
はwanita tunasusilaと呼ぶ。ところが、かの女たち自身がその呼称を拒否していること
が先月のニュースで流れた。「wanita penjaja seksのほうがより適切なようだわ。」と
かの女たちは言う。そこへやってくる購買客は通常、priaだ。実に妥当な表現ではある。

国会議員の30%はプルンプアンで占められるべきだ。女性議員は男性たちのパートナー
になるだろう。そこで行われる協働が、代表比率に頭を悩ませる必要性を失わせるにちが
いあるまい。


だからつまり、emansipasi wanitaという表現は言語的に間違ったものなのである。ワニ
タだけがあらゆる奴隷状態の抑圧から解放されたとしても、ワニタになっていないプルン
プアンはそこから除外される。プルンプアン議員30%という割り当ては、ワニタ議員3
0%に変更されなければならない。ワニタになっていないプルンプアンに、繁栄へのアク
セスを促進させるための国政に参与する地位をゆだねることなどありえない。

男性と女性の対等化はemansipasi perempuanという正確な表現で進められるべきだ。たく
さんのまだいたいけな少女たちが男たちの欲望の犠牲になっているのが現実ではなかった
ろうか?国会議事堂にワニタを座らせることは必須事項である。自己の責務と機能をよく
理解していることに加えて、真のワニタになろうと望んでいるプルンプアンたちの障害を
軽減させることもできる。そのことが、内在しているフェミニズムへの尊敬をあまりにも
長期に渡って失わせられていたワニタにとっての癒しとなるのである。